「折敷畑の戦い」と戦いとは、毛利氏が陶氏に「現形」したのと同年に、
毛利軍が、桜尾城の西北の山間部に布陣した陶方の宮川房長ひきいる軍勢と、
全面衝突し、これを大破し、大将・宮川を戦死させた戦いであるが、
江戸時代に萩藩家臣が提出した感状等から、
長らく天文二十三年九月の出来事とされていたが、
秋山伸隆氏の考証研究により、六月である事が立証された。
但し「房顕記」では、もとより六月五日としており、
陶方は、陸上からだけでなく海上からも同時進攻し、
桜尾城を攻略しようとしていた事が解る。
毛利氏の現形から一箇月もしない内、
津和野に釘付けとなっている陶隆房にしては、
迅速で計画的な軍事行動であった事が評価できる。
しかし毛利元就の応対が一枚上手だったようで、
この戦いの帰趨が、その後の戦局を大きく左右した事は想像に難く無い。
ここで興味深いのは、
元就の三子教訓状に、
棚守房顕が使者を元就の陣に遣わし、
米・巻数を進呈した事が、誇らしげに記されている事である。
「宮島さんの神主が御神籤引いて申すには」、
この合戦は、毛利が「勝つ勝つ勝つ勝つ」
元就は、そう言って兵士を鼓舞した。
が、「房顕記」にその事は触れられていない。
「当島、吉田の裁判となり、神領衆はことごとく吉見に在陣のことなれば、神領の侍、給人衆、女子供は是非に及ばざる有様なり」
房顕が、ありのまま正直に手記を書いている事が解る一節である。
それまでの厳島神領の住人たちは、
突然、毛利氏の支配下に置かれた事に当惑しており、
大黒柱を陶氏に人質に取られたままなので、
簡単には迎合できる状況ではないのだが、かといって抵抗する術も無い、
そのような当惑ぶりがよく言い表されている。
実際に、毛利氏は、神領支配を固めるために、
相当数の人質を取っていた事が確認されている。
つまり、折敷畑の陣に使者を遣わして神託を告げたのは、
決して房顕独自の情勢判断によるものではなく、
元就に強要されたものに他ならなかった、しかし、抵抗する術が無かったという事であろう。
気になるのは、後日、陶隆房が厳島に上陸し、囮城を攻撃していた際、
房顕は島内に留まっていたかどうかである。
戦禍の最中でも、島内に留まっている事は、その時、島を支配する者、わけても、
師旦の関係にある権力者に対しては、忠節を表明する上で非常に重要である。
その事は、徳寿内侍の例でも明らかであろう。
しかも房顕は、毛利元就と陶隆房の双方の御師であり、
その双方が島に上陸して戦闘しているのであるから、
陸地へ避難することが許されようはないであろう。
とすると、折敷畑の合戦に際して、
一方の毛利氏に対し神託を示したという事を認めるのは、
陶隆房に対する重大な裏切りを認める事であり、
その場合、島内に留まる事は有り得ないのである。
房顕が、折敷畑の陣中を見舞った事を断じて自白できない事情は、
そういう事であろう。
「房顕記」の記述の正確さを考慮する上で、
房顕が合戦の最中に島内に留まっていたかどうかは、
重要なファクターであるため、敢えて問題提起する次第である。
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