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平成十六年六月晦日
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Aki_Mouri_Clan Essay

第5回・折敷畑の戦い



「折敷畑の戦い」と戦いとは、毛利氏が陶氏に「現形」したのと同年に、 毛利軍が、桜尾城の西北の山間部に布陣した陶方の宮川房長ひきいる軍勢と、 全面衝突し、これを大破し、大将・宮川を戦死させた戦いであるが、 江戸時代に萩藩家臣が提出した感状等から、 長らく天文二十三年九月の出来事とされていたが、 秋山伸隆氏の考証研究により、六月である事が立証された。

但し「房顕記」では、もとより六月五日としており、 陶方は、陸上からだけでなく海上からも同時進攻し、 桜尾城を攻略しようとしていた事が解る。

毛利氏の現形から一箇月もしない内、 津和野に釘付けとなっている陶隆房にしては、 迅速で計画的な軍事行動であった事が評価できる。

しかし毛利元就の応対が一枚上手だったようで、 この戦いの帰趨が、その後の戦局を大きく左右した事は想像に難く無い。

ここで興味深いのは、 元就の三子教訓状に、 棚守房顕が使者を元就の陣に遣わし、 米・巻数を進呈した事が、誇らしげに記されている事である。

「宮島さんの神主が御神籤引いて申すには」、 この合戦は、毛利が「勝つ勝つ勝つ勝つ」

元就は、そう言って兵士を鼓舞した。 が、「房顕記」にその事は触れられていない。

「当島、吉田の裁判となり、神領衆はことごとく吉見に在陣のことなれば、神領の侍、給人衆、女子供は是非に及ばざる有様なり」

房顕が、ありのまま正直に手記を書いている事が解る一節である。 それまでの厳島神領の住人たちは、 突然、毛利氏の支配下に置かれた事に当惑しており、 大黒柱を陶氏に人質に取られたままなので、 簡単には迎合できる状況ではないのだが、かといって抵抗する術も無い、 そのような当惑ぶりがよく言い表されている。 実際に、毛利氏は、神領支配を固めるために、 相当数の人質を取っていた事が確認されている。

つまり、折敷畑の陣に使者を遣わして神託を告げたのは、 決して房顕独自の情勢判断によるものではなく、 元就に強要されたものに他ならなかった、しかし、抵抗する術が無かったという事であろう。

気になるのは、後日、陶隆房が厳島に上陸し、囮城を攻撃していた際、 房顕は島内に留まっていたかどうかである。

戦禍の最中でも、島内に留まっている事は、その時、島を支配する者、わけても、 師旦の関係にある権力者に対しては、忠節を表明する上で非常に重要である。 その事は、徳寿内侍の例でも明らかであろう。

しかも房顕は、毛利元就と陶隆房の双方の御師であり、 その双方が島に上陸して戦闘しているのであるから、 陸地へ避難することが許されようはないであろう。

とすると、折敷畑の合戦に際して、 一方の毛利氏に対し神託を示したという事を認めるのは、 陶隆房に対する重大な裏切りを認める事であり、 その場合、島内に留まる事は有り得ないのである。

房顕が、折敷畑の陣中を見舞った事を断じて自白できない事情は、 そういう事であろう。

「房顕記」の記述の正確さを考慮する上で、 房顕が合戦の最中に島内に留まっていたかどうかは、 重要なファクターであるため、敢えて問題提起する次第である。



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