晴賢自刃の地について史料間の矛盾を初めて指摘したのは、
文政十二年(一八二九)完成の『芸藩通志』であった。
「青海苔の上、山に入る十三四町、高安が原と云える地にて、全姜(ぜんきょう)自害す。
房顕手記には、大江と云う所にて自害す、とあり。
いずれ是なりや、今つまびらかにすべからず」
このように、高安が原説と大江説の対立がある事を指摘する。
高安が原は、厳島の南方・外海側の青海苔浦の谷奥にあり、大江は、厳島西方・内陸側の大江浦の一帯である。
編者の頼杏坪(らいきょうへい。頼山陽の叔父)は、両者のいずれが正しいかは不明としつつも、
「按ずるに、この役のこと、陰徳太平記・後太平記・西国太平記などに詳しけれど大いに異同あり。房顕手記を合わせ考うるに、陰徳太平記の記す所、多く合えり。されば陰徳、その実を得るに近し」と、
素朴な多数決で『陰徳太平記』に軍配を上げる。
が、これには以下の疑問がある。
@『陰徳太平記』は、
晴賢自刃の地を「青海苔の深谷を杳々(はるばる)と上り行く」辺りとするが、
「高安が原」という固有名詞は使っていない。
つまり『芸藩通志』の高安が原説は、必ずしも出典が明らかではない。
A『陰徳太平記』『後太平記』『西国太平記』は、
いずれも江戸中期の軍記物=歴史小説である。
一方『房顕』は、元就と同時代を生きた人(僅か二歳年上)の実録である。
両者の相違は、軍記物の作者に『房顕』の存在が知られておらず、
取材の対象としなかったからに過ぎまい。
従って、両者を三対一のウェートで評価するのは妥当でない。
その後、時代は下り、大正時代の広島大学文学博士・瀬川秀雄氏によって、以下の論が展開された。
(著書『吉川元春』注釈より要約)
「晴賢自刃の地を『房顕』は大江浦とし、
『陰徳記』等の諸書は青海苔浦とする。
棚守は当時の厳島社の神職なれば、その説は最も信用すべきだが、
『陰徳記』の香川正矩も毛利家臣・光景の後裔なれば、その説を一概に排斥できない。
また地域伝承として高安が原説も存在する。
私は現地を踏査し、その結果、大江浦の奥十七八町、青海苔浦の奥二十四五町の地点にある高安が原こそ、
『陰徳記』の記述に照らし、晴賢自刃の地として適当と決定した。
なお高安が原は青海苔浦と大江浦の中間にあるが、
香川には『青海苔の高安が原』であり、棚守には『大江の高安が原』だったのでは。
地名を広義に解釈すれば、三説の実体は同一である」
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