最後の抵抗勢力となった弘中勢は、「龍の窟」あるいは「龍の馬場」、
現在の「駒が林」に立て籠もった。
「駒が林(標高五〇九b)」は弥山と双璧を為して聳える鋭鋒で、
頂上部は大岩の横たわる絶壁となっており、
ここに数百の勢力が立て籠もると、一挙に攻め崩すのは容易ではない。
『房顕記』「随テ弘中三河守隆兼ト子息源太郎トハ、
人数二三百ニテ、龍ノ窟ニ取リ上リ」
『森脇』「弘中三河守隆包・子息中務、人数百計相付候て、
龍が馬場へ取上り候」
森脇春方は、当時二三歳、厳島合戦をどこまで肉迫して目撃していたかは明らかでないが、
その覚書の成立は、『二宮』に次いで古く、検証する価値のある資料である。
兵数の差があるが、弘中父子が駒が林に立て籠もったのは疑いない。
大元浦から渓流を遡っている間は、陶や三浦と一体だったかも知れないが、
おそらく殿軍として追手を打ち払いながら、
途中で谷川沿いを進む陶や三浦と袂を分かち、駒が林への登山道へ進んだのであろう。
それは、陶本隊から敵の目を逸らさせるための陽動作戦であり、
厳島屈指の鋭鋒へ進んだことにより、
まず弘中父子が自らの島外脱出の可能性を断ち切って、晴賢の捨石となった事が解る。
『房顕記』「十月一日ヨリ三日マデ山中ニ取リ巻カレアリシガ、
弘中備中守、同中兵衛、綿長加賀守ヲ、宗トノ者ノ人数ヲホソメント、
十二三人タスケ申スベシトアリケレバ、真ト心得、彼者ヒン取ル、
残ル者ドモ一人一人ト落チケレバ、弘中父子バカリナリ。爰ニ摂津国住吉ノ了善ト云フ出家アリシガ、
弘中三州別シテ目ヲカケラレシ間、弘中父子ト一所ニ腹ヲ切ル、
前代未聞ノ儀ナリ」」
『森脇』「弘中三河守隆包・子息中務、人数百計相付候て、
龍が馬場へ取上り候。則取巻、柵を結せ、壱人もぬけざるやうに可相果との御行候。
下々をば引取引取、山下にて討果候。
父子二人郎等壱人、三日朝まで相堪候」
恐らく合戦初日の九月三十日には駒が林に入ったと思うが、
本格的に包囲されたのは翌日になってかららしい。
その間、柵を設けて、逃亡を防ぎながら、弘中備中ら主だった部将を助命すると偽り、
出頭したところを捉え、その他の兵士らも少しづつ下山してきたところを討ち果たし、
十月三日朝には、遂に、弘中父子とその郎党一人になってしまった。
さて、毛利方の森脇には一人の郎党に過ぎないが、
陶方との繋がりが強い棚守房顕は、
それが摂津出身の了善という僧侶である事を知っていた。
弘中の知遇を受けた恩義で、死を共にするに至ったのは、
宗教界の者として大変な衝撃だったのだろう。
弘中の最期は、大勢が見守る中での出来事だった事も寄与して、
互いに連絡なく成立した両書の記述が、異なるアングルから同じ情景を見ている事が手に取るように解る。
『房顕記』「隆兼ノ頭ヲバ浅沼洞へ取リ、
息源太郎ノ首ヲバ熊谷洞へ取ルナリ」
『森脇』「三河守腹切候ずると仕候処、
阿曽沼内井上源右衛門討捕候。
中務をバ熊谷内末田新右衛門打取候。
郎等をバ吉川内井尻又右衛門打取候」
この箇所も合致している。
先に書かれた『房顕記』よりも後の『森脇』の方が詳しい。
『森脇』に先行する『二宮』の記述は、
「さて弘中殿ハみせんりうの馬場ニ、三百計御籠候而、
三日御座候。拵ニて、家中之衆中、各罷退跡ニて、
御父子御被官一人御供申、御せう害にて候」
とあっけないだけに、『森脇』の内容も軽視できない。
『房顕記』「陶弘中ヲ討タルレバ、
山中ヲ下ラルベキ事ナレドモ、
江田安芸新五郎ヲ討タレネバ、彼ノ者ヲ討タントテ、
三日ノ夜モ元就ハ、一夜ノ陣ヲスヱ給フ。カカル処ニ、天野紀州隆重へ江田新五郎ノ
討チ取リシ首到来スレバ、弥山ヲ下向アリ」
『森脇』「陶殿しるし五日め警固衆さがし出し候」
突然だが、ここに至って大きく両書が対立する。
森脇は、陶晴賢の首が発見されたのは「五日め」であり、中々見つからなかったとするが、
房顕は、十月三日の晩、弥山に布陣していた元就は、陶も弘中も討たれたので、
麓に下りてもよいはずだったと言うのだ。
それは、江田新五郎なる敵方部将がまだ抵抗を続けていたからであるが、
翌日十月四日、首が届けられたので、ようやく弥山を下山したと言う。
元就ほどの者が、他書では見られない江田という人物を恐れ、
不便な弥山滞在を一日延長する情景は、
我々にはピンと来ない面があるが、
この記事は、往来の困難な厳島山中では、
敵将の首を掻き斬って責任者の下に届け出る事が如何に重要な手続きであるかを教えてくれている。
森脇は晴賢の首の発見を「五日目」としているが、
九月三十日から起算すれば十月四日という事になる。
或いは、元就下山の真相は、晴賢の首がその日、「御本陣へ持せ」(『森脇』)られ、
元就が直接実検できたからではないだろうか。
追い腹を切った側近部将たちに付き添われた晴賢の死体は、早くに発見されたが、
首が見つからなかったので、偽装して逃亡を伏せている可能性が残っていた。
焦点が晴賢の首探しに絞られて数日が経過する中で、
垣並が脇に己の首を晴賢の首と偽って、届けさせるという撹乱戦術も実行されたが、
これは、児玉就方が厳しく詮議し、脇の供述が曖昧な事から、
容易に嘘が見破られたのであろう。
最後は「矛盾最小法」による推論で筆を擱こうとしているが、
『陰徳太平記』に代表される江戸期軍記物のフィクションのベールを取り去り、
『房顕記』の断片的記述から浮かび上がる厳島合戦の実相を、
読者とともに共有できたなら幸いである。(終わり)
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