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平成十六年十月九日
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Non_Mouri Story




(1)London


a country where the sky was always blue,
その国では、空がいつも青く、
where the sun shone perpetually,
太陽が絶え間なくかがやいている。
and where the whole duty of man seemed to consist in lying on a matted floor with the windows open to the ground towards a miniature rockwork garden,
岩石の築山のある小さな庭に面し、障子をひらけばすぐに地面へおりられる座敷に寝そべりながら、
in the company of rosy-lipped black-eyed and attentive damsels...
バラ色の唇と黒い瞳の、しとやかな乙女たちにかしずかれることだけが男の勤めであると言ったような・・・

17才の少年の脳裏に、 天がこの世にお恵みになったお伽の島国、 "Japan"のイメージが際限なく広がっていった。

きっかけは、3才年上の兄・Edwardが図書館から借りて帰った "Lord Elgin's mission to China and Japan" (「エルギン卿の清国、日本使節記」1859年刊)である。

エルギン卿は、 1856年のアロー号事件の発生に際し、全権大使として清国・日本方面に派遣された。 イギリス船籍のアロー号を清国の警官隊がガサ入れし、 12人の中国人船乗りを海賊行為の容疑で逮捕したのが事件のきっかけであった。 時の広東駐在領事パークス(Sir Harry Parkes)は、 英国旗を侮辱した非礼の謝罪を要求したが、 「当時、アロー号はイギリス国旗を掲げていなかった」 として清国が謝罪を拒絶したため、 英仏連合軍が清国軍と砲火を交えるに至ったのである。

圧倒的な文明格差を背景に、 欧米列強("The Five Powers":英米仏露蘭)が力づくでアジアに乱入している最中であった。

エルギン卿は、インド洋上でセポイの反乱の報に接し、 急きょインドの時局収拾にあたらなければならなくなった。 反乱鎮圧に2年の歳月を要し、インドはイギリスの直接統治下に置かれることになる。 その間、広東のイギリス軍はフランスと連合して広東を占領、 さらに艦隊を上海から天津に進め、 北京に直行する白河(パイホー)河口の太沽(タークー)砲台を陥とした。

1858年、戦後処理としてアヘン戦争後の条約より更に不平等な「天津条約」を締結させたエルギン卿は、 きびすを取って返して日本に向い、 8月26日、日英条約に調印している。 7月29日、アメリカ総領事ハリスが幕府と調印した日米修好通商条約に、 他の列強("The Five Powers")が追随した動きの一環であり、 安政の5か国条約と呼ばれている。

  1. 外国人に治外法権
  2. 自国に関税自主権がない
  3. 片務的最恵国待遇
という、天津条約と同様の不平等の3種の神器がそろっている。

先行して条約締結に成功したハリスは、 アロー号事件後の清国情勢を引き合いにして、 「英仏連合軍が余勢をかって日本に来襲せぬよう仲介してやるから」 と、幕府に脅しをかけたに違いない。

少年がエルギン卿の物語を読みふけったのは、 それから3年後の1861年の春だった。 血に飢えた狼のごとくアジアを席巻するエルギン卿は、 極東の地上の楽園で、 のんびり座敷に寝そべっていられるような優雅な立場ではなかっただろう。 しかし著者のOliphantは、自身の空想もふんだんに加えて破天荒な冒険談に脚色したのであろう。 また物語が刊行されたのは、横浜・長崎・箱館3港が開港した年のことであり、 日本については、まだ断片的な情報しか手に入れることができず、 空想をたくましくするしかなかったかも知れない。

University College London その年の6月、 少年は "University College, London" の図書館に貼り出された告示に目を見張った。

「清国および日本の領事館通訳の候補生11名の内、3名を当大学で募集する。 公開試験を実施し、その成績に基いて選考する」

"清国にさらさら興味はない。 日本に行きたい。"

「エルギン卿の清国、日本使節記」を読むと誰しもそう思うのかどうか、 少年がそう思った理由はよくわからない。

年給200ポンドという報酬も魅力的だった。 その当時の少年の小遣いは、年間8ポンドだったのである。 少年、といっても、彼は "University College, London" の2回生だった。 筆者はイギリスの学制のことは知らないが、 16才で飛び級入学した相当の秀才だったことは間違いない。 が、その彼も卒業を目前に控え、進路について悩んでいる。 ひきつづき "Trinity College, Cambridge" に進んで勉学に励むつもりであったが、 何しろ11人兄弟の8番目、早く自立して高収入を得たい気持ちも強い。

「ええと、受験資格は?」 少年は年齢制限が気になり、受験要領に目をこらす。 「1861.7.1現在、18才に達していること」

Wow!」

少年の誕生日は、1843.6.30だった。わずか一日違いでセーフ。 「やはり神さまが私に日本に行けとおおせなのだ」

が、父は反対した。 少年の父、Hans David Christopher Satow は、 7才のころ家族ぐるみでスウェーデンからロシアの商港 Riga に移住したが、 相次いで両親を失い、貿易船の給仕として数年間、世界を徘徊したのち、リガの商社に就職した。 24才のとき商社の社長と長兄の出資をもとでにしてロンドンで独立し、 その後ロンドン娘と結婚し、45才にしてようやくイギリス国籍を得た。 自分が苦労人だけに、少年を極東の僻地にやるなど思いも寄らなかったのである。

Ernest 「まだ若い内に日本語を覚え、当代一の外交官に出世して、イギリスの名士になりたいんだ」

ロンドンで一旗挙げたくてシャニムニ働いてきた父も、はや60才である。

Hans(少年の父) 「イギリスの名士か・・・」 心なしか父の目がうるんでいる。

Edward(少年の兄) 「おとうさん、Ernestなら、きっとなれるよ。行かせてやったら?」

Margaret(少年の母) 「まあまあ、日本なんて聞いたこともない国に行ってしまうなんて。 生きて帰れるのかねえ?」

ロンドンを離れたことのない、49才の彼女は、 瞼を腫らしておろおろするばかりである。

"University College, London" で公開試験に応募したのは3名だけだった。 試験は、ユークリッドの定理を書かせたり、ギリシャの古文の翻訳などである。 こういう一般教養や知能を試すような問題で点数を稼ぐのは、少年にとってはお手の物だった。 選択問題にしろ論文形式にしろ、受験なれにするにつれ要領も得る。 芸術的なまでに点取り虫だったからこそ、飛び級進学できたのであろう。 が、この試験の成績順位は、その後の出世の度合いに必ずしも比例していない事を 少年は後に述懐する。

「このような選抜形式では、外交官としての適性はまったく考慮されないのだ」

少年は、11名中の首席で合格した。 "University College, London" の他の2名は不合格だった。

首席なので、清国か日本か、赴任先は意のままに選ぶことができる。

I want to go to Japan.

少年に一点の迷いもない。

8月に正式な辞令が出、無事、卒業試験もクリアした。

少年は就職の準備のつもりで、「ペリー提督遠征記」を買い求める。 もはや日本の風物に空想を膨らませているばかりの夢見る少年ではいられない。 が、外交交渉の記述は、若き Ernest には、まだ今ひとつピンと来ていない。

「黒船を2人の日本人(吉田松陰・金子重之助)が訪れ、アメリカに連れていってくれと懇請したが、 日本の法律に違反するため、幕府との余計なフリクションを起こさぬよう、岸に連れ戻した」

などという個所も、特別な感慨もなく読みすごす。

11月4日、ついにロンドンを出発する日が来た。

希望で胸いっぱいの少年は、 2000トンの木造蒸気船「インダス号」の甲板から、 埠頭に立ちすくむ両親の姿が次第に小さくなっていくのを黙ってみていた。



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