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平成十八年霜月十一日
(Last updated : 2006.11.13)
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Essay
論断!厳島合戦
(1) 

「房顕(ぼうけん)覚書」さる間に陶禅門(晴賢のこと)は名を全薑(ぜんきょう)と付け、 九月廿一日当島(厳島のこと)へ押し上り、宮崎(塔の岡のこと)を大将の陣とし、 弘中三河守(隆兼のこと)は、古城(不明)を下りて陣を取らる。 その外の防州衆(周防の国人たち)は、思い思いに陣を取る。

9月10日〜20日の秋の祭礼が終わるのを待って、陶軍は一斉に厳島に上陸した。 覚書の筆者・大宮棚守(たなもり)の房顕(ふさあき)は、 祭礼の遂行を取り仕切る中心的人物であった。 房顕は、陰に陽に、毛利方へ肩入れしていたが、 陶軍が祭礼の実施に遠慮しているところを見ると、 上陸したからといって毛利系の神官たちを追放するような手荒な真似をしたとは思えない。 つまり、房顕は、陶の大軍に囲まれながらも島内に留まって、 戦況を傍観していたに違いない。

山岡荘八「毛利元就」陶勢の中では、ただ一人、はじめから出兵を反対して来た弘中三河守隆包(かね:兼)も、 ひと足おくれて島に渡った。

というが、棚守に拠る限り、ただ一人、ひと足おくれてではなく、その外の防州衆とともに、大将と同日に上陸したように読める。 しかも、大将に次ぐ兵力を有する重要な存在として棚守の目に映じている。

実は、弘中ひとり、厳島上陸戦に悲観的見通しを持っていたと言う件(くだり)は、 江戸期軍記物いらい、周防勢の悲劇をドラマタイズする上で重要な伏線であるが、 その典拠は意外に古く、「桂岌圓(きゅうえん)覚書」である。 桂能登守元澄の六男、元盛76歳の時(1622年)の筆記で、 前年、岩国・吉川家が毛利輝元へ「森脇覚書」を贈呈した事に刺激を受け、 輝元が岌圓に制作を命じたもののようである。

岌圓は、厳島合戦の時9歳だったので、 覚書と言っても、伝聞や諸記録の照合・編集の所産である。 岩国系の覚書に対抗する意味で編纂されたが、 「森脇覚書」との辻褄あわせにも意を払っている。 が、弘中隆兼を巡っては、なぜか、大変詳しく掘り下げており、 そのオリジナリティは、注目に値する。

「岌圓覚書」しかるところ厳島へまかり渡るべきの由、陶もうされ、 弘中三河守に使いをもって談合のところ、 三河守もうす様、「防長の弓箭(きゅうせん)ながながしく候て、落居延引のところ、 元就、校了あり、厳島の城、普請をつかまつりおき、 弱弱として引き取られ、当方の者、気負い渡るべきところにて、 厳島において合戦をとげ、 雌雄を決すべしとの手立てたるべし。 全薑、われらの手立てなどにて、 元就公に勝つべき事、厳島において合戦、中々なるまじきの間、 しきりに無用」の由、三河守返事候ところ、 陶もうさるる様に、「いつもの三河守臆病異見、是非に及ばざる」の由候て、 再往の談合にも及ばず、その夜中に警固など催し、渡海候。 さ候ところ、三河守相渡るべきは、分別に及ばず、 又相談せしめての弓矢に、別れ別れになりゆき候も男道はずれ候間、 全薑は、人の手立てを分別なく思案なきに渡られ、 三河守はその段を見つけられ、「死にに渡海候。負くべき段、必定に候。 この段追って沙汰のため申し置く」とて、あとより三河守は、まかり渡らるるなり。

陶晴賢は、厳島に上陸すべきと思い、弘中隆兼に使者を送り相談したところ、 弘中「我々との戦さが長引くほど、毛利氏はジリ貧になるのが必定なので、 元就は思案して、厳島の城を新造し、 弱弱しい状態で引きあげ、 我々の兵士が勢いこんで上陸したところを狙って、 島内で決戦を仕掛け、雌雄を決しようという魂胆でしょう。 陶殿や私などの知略レベルで元就に厳島で勝とうというのは、 中々難しい事ですので、渡海はなりません」 と返事したが、 陶晴賢は、「いつもの臆病風に吹かれた三河守のご意見、とても採用できない」 とて、再び談合することもなく、その夜のうちに水軍を動員して、厳島に上陸した。 そうなると弘中も、 一旦、陶に合力しておきながら、形勢不利と見るや別行動を取るのも男の道を外れており、 渡海せぬわけにはいかない。 陶晴賢は考えもなく渡海したが、弘中は、問題点を見抜いており、 「死にに行くのである。敗戦は必定である。 この事は、後世の評判のため遺言に残しておく」 とて、一足遅れて渡海した。

山岡荘八「毛利元就」「口惜けれど討死しに渡ってゆく。皆もよく覚えておくがよい。 この戦いは、きっと陶没落の糸口となるであろう」ひそかにそう遺言して渡ったのだ。

敗戦を予見して悔しがる弘中の姿は、「房顕覚書」には見えず、 岩国系「二宮覚書」にも「森脇覚書」にも一切、言及はないが、

岩国の人の著作「安西軍策」 「陶入道全薑の知恵が浅く、元就の術中に堕ちる事は、 大内・陶の滅亡が到来したのだ」と知りながら、致し方なく、二日遅れて押し渡った。

とある。この文脈は、明らかに、萩藩系「岌圓覚書」からの借用であろう。 ここまでの所、弘中が厳島渡海に反対し、陶陣営の中で孤立していた事は共通しているが、 どちらかと言えば、弘中にとっては若造に当たる晴賢自ら、 弘中を「臆病参州(三河のこと)」と一蹴しているようである。 これに対し、

香川正矩(まさのり)「陰徳記」(弘中)「・・・総じて物忌み強く候ゆえ、 女人の懐胎し臨月に及びて、腹いたみ、破水くだりて、子、産門に赴き候ときも、 いまだ産まざる内にとて、急ぎ船に乗せ漕ぎだし候。もしまた、急に平産つかまつり候えば、 産後いかに目くるめき、心地うしない候とても、すこしも構わず、急ぎ船に乗せ、 廿日市地御前へ渡り候。 (話は脱線するが、 ここまで厳島の住民の風俗の紹介だが、かほど具体的な説明としては、 年代的には最も古く、元禄期の厳島観光案内本にも先立っている。 こういったところに、香川正矩の並外れた地誌調査能力が垣間見える。) かかる所にて候えば、合戦に及びなば、手負い死人の汚穢(おわい)の憚(はばか)りもあるべく候。 明神の神慮も図りがたく候えば、かたがた、御渡海を思し召しとどまられ候え」 と申しければ、入道もこれまた、その言われありと耳を傾け居られけるところに、 三浦越中守、これを聞きて、「いや弘中どのの仰せ候ところ、さにあらず、・・・」

と、弘中の説得に、陶晴賢も「成程」と傾聴しそうになったところへ、 三浦越中が強硬に渡海を主張した事になっている。 これらは、典型的な伝言ゲームの様相を示しており、 岩国系覚書を萩系覚書が呑み込み、 それをまた、岩国系軍記物が呑み込んでいく、という調子で、 時代が下るにつれ、話に尾ひれがついていくのである。

そこで、陶方の軍議の様子を初めて活写しえた「岌圓覚書」を注目せぬではおれないが、 一体、当時、弘中の遺言状など、何らかの裏づけ史料が存在したのであろうか。 少なくとも、萩藩に提出された史料中に、それらしいものがあったのであれば、 享保期の萩藩士・永田政純が編纂した「新裁軍記」「参考」として掲載され、 その真偽を巡って永田の論断が下ったはずであるが、 いくらページをめくってみても、それらしい史料は皆無である。

どこぞの武士の秘蔵文書として、それらしいものがあるという風評はあったかもしれない。 が、その確たる証拠は突き止めようもない。 むしろ「岌圓覚書」は全体として、 読者の耳目を喜ばせるような、華やかな逸話が大胆に語られているが、 根拠史料もないし、岌圓が生まれる前の時代でも、見てきたかのような書き方である。 敵方の軍議の様子など、所詮、巷間の噂の域を出ないであろうし、 況(いわん)や、弘中が厳島渡海に先立って書き残した遺書などというものは、 その痕跡もないのである。

ところが!その遺書なるものが発見されたのだから驚きである。 平成5年刊行の(福岡県)「豊前市史」所収の西郷文書がそれだ。 書き手は弘中隆兼その人。 発見したのは、県立広島大学秋山教授で、 9月30日安芸高田市吉田歴史民俗資料館の公開講座、 及び、11月11日、広島市内で開催された県立広島大学主催の公開講座で、言及された。

しかも!その文書がどうやら本物と考えた方がよさそうだ、という事も判明した。

これは私こと福原が、WEB上で偽文書の懸念を表明した事と関係があるか、ないか、 ともかくも、秋山教授は、私こと福原が、中小会社の中間決算の取りまとめに追われている間に、 東大史料編纂所のマイクロフィルムの確認とか、いろいろ調べておられたのである。 要約すると、弘中氏は従来より、西郷という武士の舅と伝えられていたが、 そもそも、実の娘に西郷家から聟を迎えた可能性もあるという。 その家に秘蔵されていたのが、西郷文書であり、 その内容は、他でもない、毛利元就が厳島を奇襲する当日から前々日の間に隆兼が、 親戚や妻に認めた、一種の遺言状だったのである。

うめに、聟をとれ、とか、岩国・琥珀院に置いてある長持に名刀が這入っているのを、 失わないようにとか、 極めてプライベートな内容なので、わざわざ偽造する動機も見当たらない。 だが、そこにさりげなく言及された厳島合戦の状況は、 驚くべき事も多い。何点か、注目すべき点があるが、その一つが、

「(今度の働き、軽々とし候も)神領衆、また、警固、三浦など申し候て、このごとく候、口惜しく候」

である。 今回、軽率にも厳島渡海コースを選択したのは、神領衆・警固・三浦らに唆された事で、 恐れていた通り、このような状況に至ったのは、悔しい限りである。 この件は、「岌圓覚書」の遺書に通じ、「陰徳記」の軍議を彷彿とする。 根拠の不明な覚書や軍記の一節が、新出史料で裏付けられた格好であり、 一見、痛快至極な大発見である。

が、一方で、覚書・軍記を成立順に即し、お互いの参照関係を検証したことによって、 「陰徳記」の軍議は、次第に話しに尾ひれがついて肥大化した結果である事は確認済みだ。 そうすると、当該新出文書は、巷間よく知られた「陰徳太平記」 (父の「陰徳記」に加筆したもの)を下敷きにして作成されたと推測するのが、 至って自然な成り行きに思えてならない。

もう一点、引用するなら、

「隆兼父子渡海の上は、御用に立つべき事もちろんに候」

これは、「岌圓覚書」以来の、「死にに渡海候」と符合するものである。 このように見ていくと、一見、オリジナリティ溢れる西郷文書だが、 本人しか知りえない情報と言うのが、意外に少ないわけで、 私こと福原は、内容的には、偽造可能と判断している。

但し!秋山教授のたまわく、花押は本物、との由。 また、偽造する動機が見当たらない、と。 確かに、はっきりした動機はないのだが、 隆兼の子孫が、悪名高き陶晴賢の一味扱いされ、 代々、肩身が狭い思いをしているので、 隆兼の知的な人格に焦点を当てたアピールをしたかったのかも知れない。 特に、幕末から明治維新以降、毛利氏の名誉が上向くに連れて、 陶晴賢一味が益々悪役として定着した事が関係していないだろうか。

疑念を持つ理由の一つには、 全体的に表現がハイカラで、 第3者に解り易い、否、解り易すぎはしないか、という点だ。 例えば、自分と子息・源太郎の事を、「隆兼父子」と自称するだろうか。 三浦についても、「三浦越中」「三越」など個人を特定しようとせず、 漠然と「三浦など」とするが、かといって、 併記された「神領衆」「警固」という幅広い括り方とも調和せず、 中途半端である。

一方、妻宛の仮名文と、親族・僧侶あての漢文という二つの形式で、 同じような内容をまとまりよく仕上げているところは、 もし偽文書とすれば、偽作者は相当の技量の持ち主であり、 弘中氏の遠い親戚ずれには、とても雇えない大物ということになる。

よって、今回、断定は避けたいが、西郷文書の持つ意味は、 なお慎重に検討する必要があろうかと思う。



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