メール - 共同掲示板 - 個人掲示板 - ブログ - 推薦リンク - 唐傘リンク - カレンダー - ヘルプ - Top Page
平成十八年霜月廿日
(Last updated : 2006.11.19)
このページのアクセス:
Google
WWW を検索 「安芸・毛利一族HP」内を検索

Essay
論断!厳島合戦
(2)

「毛利家文書531」宮の城はや殊の外よわり候て見え候よし申し候。 尾頚の堀は、はやはや悉く埋め候よし申し候。心づかい此の事に候、候、候。(後略)9月27日 元就

「房顕覚書」当島(厳島)の城(宮の城)心もとなしとて、 熊谷信直は26日、船数五六十艘にて当城へ入り給う。城の気負い、是非に及ばず。 しかる間、28日には、興家(能島・来島村上氏)の警固(水軍)二三百艘くだる間、(後略)

両書とも一級史料としての評価は確立している。 両記述をまとめると、9月26日、厳島の囮城である宮の城に、毛利家武将・熊谷信直が船を寄せ、兵を補強し、 気勢を挙げたが、同時に、宮の城は尾頚の堀を埋められ、風前の灯火となっている事が解り、 気が気でない元就は、その事を音戸瀬戸に待機中の小早川隆景に告白し、 難航する来島村上氏の来援交渉に見切りをつけ、小早川水軍だけでも急遽、 はせ参ずべき事を督促しているのが、「毛利家文書531号」の内容であり、時あたかも、27日。 しかして来島水軍は、間一髪、28日に廿日市沖に姿を現わしたのである。

「心づかい此の事に候、候、候」 この語尾の執(しつ)こさは、元就の特徴的な言い回しであり、 文書偽造の懸念を差し挟む余地はない。 また「房顕覚書」に於ける厳島合戦前後の日付の確かさを証明するものでもある。

で、元就が告白した宮の城の窮状の実態は、極めて明快である。 尾頚の堀を埋められた、と言うのだ。 宮の城は、小なりといえども、海上からの上陸を断崖絶壁で拒む堅固な海城である。 但し、背後のバクチ尾あたりから降りてくる尾根の先端に当たるので、 その尾根筋からの攻撃が、唯一最大の弱点である。

但し、その尾根筋は、現在「仁王門跡」の標識が立っている郭と、今伊勢神社の祠がある宮の城側の郭の間は、 地形的にもくびれている。 宮の城の本郭は、尾根の先端部にあり、そういった地形を尾崎(尾根の先)といい、 しばしば有りがちな、先端部手前のくびれ部を尾頚(尾根のくびれ部)という。

当時、宮の城の修築にあたっては、 その尾頚を深く掘り切ったであろう事は想像に難くない。 現在も、そこは切通しとも呼ぶべき通路になっている。

元就は、その尾頚の堀が、ほとんど(「はやはや」の語感から意訳)埋められた!と絶叫しているのである。 明快である。

ところが、後世の覚書・軍記物類は、元就の書状の存在を知ってか、知らいでか、 これまた、独自の伝言ゲームの様相を呈する。以下、その経緯を追ってみる。

まず「房顕覚書」は、残念ながら、宮の城の危機については、「心もとなし」と言及するのみである。 結果的に、熊谷入城後まもなく来島が到着したので、 部外者には、毛利家の危機的な状況が認識されなかったためか、 いずれにせよ、棚守房顕が記述しなかったのは、後世の研究においては、大きな損失をもたらしている。

次に岩国系「二宮覚書」も、全体的に記述が簡略なため、特に言及なく、 「森脇覚書」に至って、注目すべき記事に行き当たる。

「森脇覚書」城の様子、はや水の手を五日以前に取られ、 矢倉をも掘り崩し候を、着る物を破り、縄に打ちつなぎ、相かかえ難儀の通り申し候。

城の様子を何日に実検したか不明だが、ともかく5日以上にわたり、 井戸郭を占領され、矢倉の(おそらく)土台を掘り崩され難儀している、というのである。 矢倉が傾いたので、衣服を破って、縄のようにつなぎ、それを兵士が手で引いて支えている、 といった意味の事を小説的に描写している。

森脇が当時、兵士として厳島に従軍していたかどうか微妙な年齢でもあり、 他に事実確認できる典拠がない記述でもあるが、 覚書の成立時期が、「二宮覚書」から大きく遅れておらず、 一通り、意味が通っている事を考えると、 そのオリジナリティは尊重されるべきである。

ただ、5日以上経過という記述は、城の検分が29日だとしても、25日以前に水の手を取られた事になる。 陶晴賢が上陸した21日から4日以下の経過である。 もし、水の手を取られると同時に、矢倉が傾いたのであれば、 5日以上も、宮の城が独力で持ちこたえたのは、何とも不自然である。 風評に基づく脚色の可能性は拭いきれない。

続く萩藩系「桂笈圓覚書」には、宮の城の窮状の描写はなく、 輝元がより詳細な覚書を所望して成立した「老翁物語」は、 ほぼ「森脇覚書」を丸写しした記述がある。

少し時代が下って書かれた、岩国の人による軍記物「安西軍策」は、 宮の城がかなり弱っており、これ以上の籠城は無理、とだけ言及。

香川正矩「陰徳記」敵城を堀崩さんと二六時中掘り入れ候間、 五日以前に水の手を掘り取られ、矢倉も掘り崩され候を、大綱をもって繋ぎ、 相かかえ候。

いよいよ、香川家の伝家の事業というべき「陰徳太平記」への道だが、 まずは、父・正矩の「陰徳記」を見てみよう。 ここまで、水の手うんぬんは、「森脇覚書」の他、典拠はない。 そこで、基本的には丸写しだが、そこへ正矩独自の解釈が入る。 つまり、水の手も矢倉も、トンネル作戦で、掘り取られたり、掘り崩されたりしたというのだ。

森脇は、水の手を取られた、としか言っていないので、 福原雅俊は、取り合えず「井戸郭が占領された」と単純に解釈したが、 香川正矩は、水の手を弥山からの伏流水つまり「地下水脈」と解釈し、 それを掘り取ることで、井戸郭を涸らした、と解釈したのである。 そして森脇が、水の手を取られた事と矢倉が掘り崩されて傾いた状況を併記したので、 一連のトンネル作戦の結果として、紐付けたのである。 が、これは、まさしく史料の行間を空想で埋め合わせる、 という典型的小説家手法であり、それが真実である保証は何もないのである。

で、子・香川宣阿の「陰徳太平記」だが、

宣阿「陰徳太平記」敵より城を堀り崩さんと日夜掘り入れて、 五日以前に水の手を掘り取られ、矢倉も半ば掘り崩され候を、大綱をもって繋ぎ、 相かかえ候。

何のことはない、正矩の文章を、少し読みやすい表現に推敲したに過ぎなかった。 しかし、矢倉は傾いただけなので、「半ば」を付加し、森脇が「着る物を破りて」とするのを、 それは、うそ臭い、しっかり繋ぎとめようとすれば、大綱でなければ、 と言った調子で、ひたすら、見てきたような描写の精密化が図られる。 かくて、木版印刷された「陰徳太平記」は、一般の読書子にも広く読まれるに至る。

さて、ここまでの説明は、 全て、「豊前市史」所収の「西郷文書」における「弘中隆兼」書状の真贋判定のためであった。 いよいよ真打登場!

「西郷文書」(弘中隆兼書状)敵船うしろ巻きとして、 数艘渡海せしめ、敵城へ人数差し込め相成り候。こなた警固、数、これなきによって、このごとくの儀、 是非に及ばず候。 既に水の手まで堀崩す事に候。 隆兼父子渡海の上は、御用に立つべき事もちろんに候。(後略)9月28日

妙なのは、元就は、26日に熊谷が城の様子を見に行った時点で、 尾頚の堀があらかた埋められた、と言っている。 それなのに、わざわざ28日まで、水の手へ向ってトンネル作戦を継続しなくても、 尾頚からの強攻に徹すればよいのではないか。

26日の熊谷入城に意気阻喪し、28日に父子の討ち死の覚悟を表明する状況下で、 トンネル作戦という、遠大な大事業を継続するのは、いかにも不自然。

しかし、二宮覚書の記憶ちがいから端を発した、 「26日村上水軍来着、28日、熊谷ら宮の尾城入城」という線をベースシナリオとする 「陰徳太平記」の状況とは符合してくる。 村上水軍数百艘の到着は、既に陶勢の意気を阻喪させているが、 27日頃の宮の尾城の検分にて、 「水の手を掘り取られ、矢倉も(半ば)掘り崩され」た状況が、 28日夜、「小早川隆景を大将として、熊谷伊豆守、父子5人を添えられ、浦兵部丞案内として、忍びて漕ぎ渡り、 有の浦の城へぞ入り給いける」(陰徳太平記)という毛利方の行動を引き起こした。 隆兼書状は、「敵船」を五六十艘といわず、「数艘」といい、お忍びという認識を踏襲する。 しかし、陶方の水軍が警戒していれば、忍びて漕ぎ渡ることなど不可能と気づき、 「こなた警固、数、これなきにより」と、油断があった事を指摘して取り繕っているかに見える。

これは、いよいよ来る時が来た、と、少し早すぎるが、28日において弘中は覚悟を決めるわけである。 しかし、軍記物には、水の手が取られたという記述があるので、 隆兼書状においても、文脈上、身内に説明する必要がないにも関わらず、 その事を記している。 プライベートな書状の中に、後世の読み手の目を意識した一文が、混入しているのである。

更に「水の手を掘り崩す」という表現も、 「水の手を掘り取られ、矢倉も(半ば)掘り崩され候」という陰徳太平記の記述が、 不用意に圧縮されたもののように見え、急に意味が不透明になっている。

以上の考察より、 福原雅俊は、「西郷文書」の弘中書状が、「陰徳太平記」を踏まえて作成された可能性が高いと判断せざるを得ない。

なお、前回、県立広島大学主催の秋山伸隆氏の講演を紹介したが、 その際、文書の真偽判定に関する質問を行い、「西郷文書」の背景について、詳しく知る事ができた。 その内容を紹介したいが、 不幸な事に、安物の録音機を使用した事もあって、 私や周囲の聴衆の資料をめくる音などにより、 部分部分、説明が聞き取れなくなっており、正確さを期す事ができない。 その事を御承知いただいた上での事だが、

確証はないが、弘中隆兼は、西郷(遠江?)守、隆(藤?)の舅と言われている。 ひょっとすると、娘・うめが、西郷遠江守隆藤に嫁いだのかもしれない。 「豊前市史」所収「西郷文書」には、他にも数点、弘中氏関係の文書があり、 それによると、 彼(西郷隆藤?)は、永禄年間に大内輝弘が、周防に上陸し、山口へ進駐した際、 従軍し、弘中氏の所領回復のため働いた。

余り、ホームページで紹介したくないが、これは「豊前市史」を入手した方が良さそうだ。 なお、秋山氏は、東大史料編纂所で11月2日、「西郷文書」の写真(帳?)を確認し、 花押は本物と、判定されている。

果たして、隆兼の自筆書状かどうか、は、ともかく、 「西郷文書」を保管・管理してきた者には、 弘中隆兼の領地回復や、その前提としての名誉回復の動機はあったのである。 が、「陰徳太平記」後の偽造は、物欲的動機が想定しにくいのも確かだ。 あるいは、萩藩毛利氏の統治下の周防で、弘中旧領の復活を画策したのであろうか。

動機はさておくとして、文書の内容的には、福原雅俊は、弘中文書は、偽造可能と考える。 その理由は、(1)「うめ」「こん」という女性の固有名詞は、他の史料で確認できないため、 適当に決める事ができる (2)「こなた警固数これなきによって」の一文以外は、 覚書・軍記物を参照にして容易に記述できる。

一方、清水寺、無量寺、諸朴軒などの関係者が登場するのは、 本物である可能性をサポートするものである。 そこで、本物の他の文書を参考にして、この2文書が偽造されたか、 本物の文書がプライベートな内容しか含んでいなかったので、 世間の注目を得るため、軍記物から引用した事実を加筆して偽造した可能性もあろう。

私の推論にも、根拠はないわけだが、ベースにある理論は、時間の不可逆性である。 水の高きから低きに流れるごとく、 軍記物は、前時代の文章に尾ひれをつけながら肥大化していくのであって、 肥大化した記述の真実性が、後日、新出の一次史料によって裏付けられる、 というのは、不自然であり、その新出の一次史料は、肥大化した軍記物より後に作成された、 と考えるのが、時間の不可逆性に沿った判断ではないか、という点である。



安芸・毛利一族HomePage
Copyright 2001-6 Masatoshi Fukubara. All rights reserved.
当サイトの著作権は 福原雅俊 が有します。
また、本頁の背景画像は 「お城巡りFAN」 岡泰行さんのご厚意により、福原雅俊に使用許諾されたものです。
当サイトの内容をいかなる方法に於いても「無断で」改変、複製、転載する事を禁じます。