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平成十八年十二月四日
(Last updated : 2006.12.3)
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西
(1)概要

西郷文書とは

平成7「豊前市史」文書資料編の資料紹介によれば、 仲津郡西郷を本貫とする、豊前・宇都氏の一族、西郷氏の古文書である。

但し「宇都氏」は、「宇都宮氏」の誤植であろう。

都宮氏は、Wikipediaによれば、 藤原宗円なる者が、前九年の役での功により、宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社)の別当職に任じられ、 宗円の孫・朝綱から宇都宮氏を名乗り始めたものという。

前・宇都宮氏は、 藤原宗円の次子・中原宗房が、豊前国仲津郡城井(きい)郷に地頭職として赴任したことが始まりとされ、 神楽山城(福岡県京都郡みやこ町犀川木井馬場)を本拠として、宗房の子・信房の代には、 豊前守護として大いに勢力盛んだった。 6代・頼房の時、本拠を本荘城(福岡県築上郡築上町本荘)へ移した。 14代・正房の時、大内義興に本荘城を破られ、城井川上流の城井谷城(築上町寒田(さわだ)〜牧の原キャンプ場付近)に退き、 大内氏に属している。

西郷氏は、宇都宮氏一族が、豊前の海岸線に沿って、領地を展開する中の一つを占めるものである。 西郷という地名自体の場所を示す資料は入手していないし、そこが西郷なら、では東郷はどこか、と問われても、 わたくし は知らない。ただ「西郷文書」中の「西郷遠江守給地分坪付」等、 領主からの宛行(あてがい)状のような文書によれば、どうやら「築城郡高塚村(福岡県築上郡築上町高塚)」一帯のようである。

「西郷文書」の中に「大内義興補任状」というのがあり、 西郷蔵人資正に、高塚村・北野御神領の代官職を任命する文書に、義興の花押がある。 明応10年(1501)3月13日毛利元就は数え年5歳多治比猿掛城に移って丸一年が経とうとしている。 大内氏が、前将軍・義稙(よしたね)を奉じて上洛する下準備として、九州北部の平定に心血を注いでいた時分である。

豊前市史」の感心な点は、収録文書を全点、白黒写真で掲載している所である。 よって、この文書も、筆跡などのイメージが確認できる。 解像度は不十分だが、義興の花押ははっきり写っているので、 よそに残る文書と比較して真贋を判定するには問題ないだろう。 私は、その作業をしていないが、まず本物と判定されていると思う。

「豊前市史」には、「末久文書」というものも収録されており、 山田左衛門尉西郷信定和与(争いを示談で決着する意であろう)し、 「上毛の大中島の畠地7反」を西郷に返給する事にしたので、 西郷も訴訟を取り下げる旨、表明する文書がある。 弘安3年(1280)4月の事である。 末久氏山田氏の被官と見られる。 山田氏は、福岡県豊前市四郎丸の大富神社の辺りの領主で、高塚村とはJRの最寄り駅も隣同士という位の距離である。 つまり、西郷氏は、この頃から既に、築上町高塚を中心に、その辺の海岸線に所領を持つ地頭だったと思われる。

但し西郷文書には、鎌倉時代の山田氏との和与についての文書はない。 というのも、最も古いもので暦応3年、というから、1340年、南北朝時代である。 「弓削田孫増御前所」に宛てて、塔田村の政所職を補任するというもので、西郷氏との関係はよく解らない。 その次に古いのが、観応3年(1352)3月。これは、西郷刑部大夫有政宛てで、 前年8月苅田城(福岡県京都郡苅田町)攻め等での戦功を賞する足利直冬の感状である。

これらの文書が、どのように保蔵され、どのようにして世に現われたのか、興味深いところである。 「豊前市史」資料紹介によれば、 所有者は、太宰府天満宮のご近所、福岡県筑紫野(ちくしの)市二日市にお住まいの帆足(ほあし)倍邦氏との由。 帆足氏の夫人は、戦後、しばらく福岡市須恵町に住んでいた伯父・西郷忠太郎氏の元に寄宿していた事があり、 その縁がもとで、現在、帆足氏が所蔵しているそうである。

忠太郎氏は、中世の地頭・西郷氏の分家筋に当たり、先祖は黒田藩の藩士だったそうである。 近世に至り、西郷氏本家は滅亡し、修験者を介して、古文書のみ黒田藩士・西郷氏に届けられたそうである。 修験者とは、何ともロマンチックだが、おそらく、江戸時代のかなり初期の頃の話が、口伝えに伝承されたのであろう。 要は、出所不明と考えた方がよく、信頼できる文書かどうかは、他所から収集された文書類と比較照合するのが、 合理的な方法論かと思う。

西郷文書の内容を大まかに分類すると、全31号からなり、内、29−31号は、 「西郷氏系図」「西郷氏伝記」「西郷氏伝記 全(寛政7年(1795)2月)」であり、 極めて興味深い表題だが、残念ながら「豊前市史」には収録されていない。 ただ西郷文書は、「福岡県史資料」でも活字化されているとあるので、 そちらに収録されているかもしれない。 香川宣阿「陰徳太平記」が出版された後に、西郷氏の伝記が取りまとめられているわけで、 そこには、当時のプロの歴史考証家が介在していると見られ、 西郷文書を構成する古文書は、 その人物による何らかの造作が入っている可能性も否定しきれないかと邪推してしまうのである。

話を戻すと、28号は、「本流宇都宮姓西郷代々感書控」と銘打ち、全37点からなるが、 ほとんどが、1−27号の本紙(オリジナル)の写しである。そうでないものが、都合7点ある。 引き算が合わないことにお気づきの向きもあろうが、1つの本紙に複数の写しがあるものもあるからである。 本紙のない7点は、写真が掲載されていないため、どのような花押があるのか、 それとも花押の代わりに写しである事を示す注があるのか、全く不明である。 同様に1−27号の写しとされるものも、こちらが本紙で、こちらが写し、と言える解りやすい違いがあるかどうか、 よく解らない。つまり、1−27号を構成する本紙も、28号を構成する写しも、質的に何も違わない、 写しのオンパレードではないか、という素人っぽい素朴な疑念が残る。

話がややこしくなるので、一応、本紙と位置づけられる1−27号に限って、集計してみよう。

  1. まず、南北朝期の文書は、19号1点
  2. 次に、大内氏の配下に入り、陶氏が謀反するまでの時期における、 大内関係者から西郷氏宛ての書状、及び西郷氏内部の譲り状は、1・2・3・4・5・6・7号7点
  3. 陶隆房大友義長を奉じてクーデターを起こした後、厳島合戦に至るまでの、義長関係者から西郷氏宛ての書状は、 8・9・10・11号4点
  4. 毛利元就、隆元、輝元など、毛利関係者から西郷氏へ宛てた書状は、17・23・24・264点
  5. 大友関係者西郷氏との間の、西郷氏の給地に関する書状は、18・22号2点
  6. 弘中隆兼がその身内に宛てた書状を含め、弘中一族の関係者宛ての書状は、12・14・15・20・21・27号6点
  7. 大内義長(大友宗麟の弟で陶隆房により大内氏の後継に奉じられた)から身元不明な女性、 及び、大内輝弘(大内氏の一族で、長く豊後・大友氏の元に身を寄せていたが、毛利氏の九州出兵の際、 背後を襲うべく、豊後から海路、防府へ上陸し、元就の心胆を寒からしめた)から身元不明な女性、 及び隆郷なる人物から身元不明な女性への書状は、13・16・25号3点

こうしてみると、 まず、西郷氏自身が、南北朝期足利家戦国期大内氏陶氏毛利氏、また大友氏、と、 その時々、仲津郡西郷の地に支配力を及ぼした権力者に対応して、巧みに時流を乗り切った様子が伺える。 これらは、上記1から5の計18点の資料から知られる。

が、改めて注目すべきは、大内氏の重臣・弘中隆兼に関係のある書状が6点もある事である。 厳密に言うと、いずれも、隆兼の遺族のための書状という意味を持つ。 更に、最後の身元不明な女性3名は、いずれも弘中氏遺族の関係者である可能性があり、 最大27点中9点、つまり全体の三分の一が、弘中隆兼の遺族のための文書、という様相を呈している事である。

これは、弘中氏と西郷氏が何らかのつながりがある、と推定せざるを得ないが、 残念ながら、西郷文書それ自体は、両者の関係を説明してくれていない。 ただ、微かに1点、接点を見出す事ができた。

それは、「清水寺」そして「真光院」という寺院である。

15号文書は、永禄12年6月24日清水寺尊恕が、真光院および弘中弾正忠に宛てて、 周防国山代(やましろ)・生見(いきみ)郷(山口県岩国市美和町生見)、安芸国佐東郡・新山(広島市安佐南区?)、 長門国美祢(みね)郡・岩永(山口県美祢郡秋芳町岩永)の領地について、 先の所有者と石高を注記したところへ、大内輝弘が弘中氏へ宛がった事を示す花押を署名したものである。 しかして清水寺というのは、12・21号にて、 厳島合戦で毛利軍が厳島に上陸する前夜、弘中隆兼が遺言的な書状を書いた時の宛名の一つなのである。

15号文書には、弘中弾正忠・松永二郎左衛門尉・江木治部少輔3名の花押のある裏書があり、 彼らは、 「(清水寺)尊恕、多年、御本意を守られ、当時、御てだてに至るのみぎり、御労功比類なきの条、その賞として弘中一家に対せられ、御加恩を成され候」 と記している。おそらく、弘中隆兼の遺言の実現を、跡を託された清水寺の尊恕上人が、 長年、大友家に嘆願していたのだろう。大内輝弘が周防の奪還を目指すに当たり、 その嘆願を受け入れ、弘中遺族への加増を行った。但し、給付したのは、現状では毛利氏の支配下にある、 安芸・周防・長門の土地であった。

というのも、大内輝広は、この年、10月11日に周防に上陸し、同25日吉川元春に攻められ、自刃しているので、 6月には、まだ豊後・大友領内にいたのであり、この書状は、 云わば、山口制圧後に備え、陰の内閣を設置し、防長の所領の再配分、いわゆる「捕らぬ狸の皮算用」を行ったものであろうか。

それはともかく、真光院という寺院は、現在、他でもない築上町高塚にある真光寺の事と思えるからである。 高塚は、西郷氏の本拠地そのものであり、大内氏滅亡後、 弘中弾正忠という人物が、西郷氏の庇護の下、高塚の真光寺に関わっていたと推測できよう。

さて、もう少し、一つ一つの文書の分析を試みたいが、それは、また後日に。 (つづく)



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