軍記物は、戦国時代史の史料として見るのではなく、近世の社会状況・成立背景といった点からその性格を明らかにする必要がある、という山本洋氏の指摘は、既に目新しいものではない。
しかし昨年6月に発行された氏の論文では、岩国徴古館所蔵の史料の調査が目覚しく進展した。
その結果、『陰徳太平記』の刊行を岩国・吉川家が最終的に許可したのは享保元年(1716)九月十日である事が確認され、
これにより、『陰徳太平記』が実際に出版されたのは、『岩邑年代記』に記される通り享保二年(1717)である可能性が高く、これを正徳二年(1712)の誤りとする従来説は退けられた。
なお、その最終的な許可に先立つ宝永三年(1706)二月十四日、岩国・吉川家は、
香川宣阿に対し『陰徳太平記』の刊行を既に一度、許可していた。
山本氏は、この経緯を「一回目は、出版実施へ向けての着手を許可するものであり、その方針の下、その後も原稿の校正が続けられた。
二回目は、はや原稿も決定し、印刷も大方完了している段階において、これ以上の延引はできないとの宣阿の催促を受け、最終的な許可を与えたもの」と解釈されている。
しかしながら、両者の間に10年もの歳月が流れている事は不審である。
本件の決定権者であった蓮得院は、宝永三年(1706)時点で、
「陰徳記の板行は、時節柄、的を得て幸いであり、宣阿も高齢であることから、急いで実行させるよう」申し付けているからである。
この点についての氏の推理は、明らかに説得力に欠ける。
但し氏は、もう一つの興味深い問題提起をされている。
それは、岩国・吉川家が、軍記物の出版に密かに介入することを、家格宣伝活動における具体的な戦術の一環として、明確に意識していた、という指摘である。
その工作の痕跡は、『陰徳太平記』の他にも『関原記』『南海治乱記』に見られ、しかも時期的には、享保元年前後に集中している。
この事は、『陰徳太平記』の原稿が、宣阿の自序によれば、元禄八年(1695)には成立していたにも関わらず、実際の出版が、享保二年(1717)まで延引した直接の原因として注目を要しよう。
因みに、吉川家の家格宣伝活動とは何であろうか。
これについて、福原雅俊自身、ほとんど予備知識は皆無であり、山本氏も、詳細は『岩国市史』以降の数々の研究に譲られ、多くは語られていない。
(好学の徒の便宜のため、先に参考文献を紹介しておく。福原も機会があれば目を通しておきたいものである。)
- 『岩国市史』1970
- 田中誠二「萩藩の本・支藩関係をめぐって」(『山口県地方史研究』第61号)1989
- 岸本覚「長州藩の藩祖顕彰と藩政改革」(『日本史研究』第464号)2001
- 宮田伊津美(『和木町史』)2003
手近な情報源として、インターネット上には、
http://ww7.enjoy.ne.jp/~wataru1/sub137.html
がある。トップページは「つたまる喫茶店」(http://ww7.enjoy.ne.jp/~wataru1/)である。
もう一つは、
http://ww6.enjoy.ne.jp/~kisk/LocalStudy_Dat/Kikkawa_Formality.htm
である。トップページは「若松荘」(http://ww6.enjoy.ne.jp/~kisk/Index.html)。
山本氏の論文と、これらの情報源を総合した福原の理解は、およそ下記の通りである。
- 岩国の初代・吉川広家は、関が原合戦で毛利軍の動きを封じた功により、徳川家康の信任厚く、城持大名としての格式を保っていた。
- 二代・広正、三代・広嘉は、萩藩・毛利氏との関係において、長府・徳山の毛利支族と同等の処遇であった。
- 四代・広紀は、元禄六年(1693)七月十三日、萩藩毛利本家の屋敷で急死した。享年39。身体の不調を訴え床に臥してから、わずか五日後の事であった。
- 僅か二歳で相続した五代・広逵の母、つまり四代・広紀の後家が蓮得院である。蓮得院は、宝永七年(1710)、吉川家の「家筋の儀」を萩藩に申し入れしている。
この問題は、享保二年(1717)の吉川家においては、「吉川家の家筋について、以前から萩藩が世上に言い広めていることは色々間違いがあり、それが原因して、萩藩と吉川家は仲たがいしている」と記録される。
- 萩藩は、正徳元年(1711)十月「岩国では近頃になって家格が下がったというが、そうではなくはじめから家来の待遇であったのである」と返答し、岩国・吉川家は、当初から幕府の直臣ではなく陪臣であるとの立場を
鮮明に打ち出した。
- その後も、両者の言辞の応酬が続くが、蓮得院は、実母が大奥の老女である縁で、老中・秋元但馬守を動かして萩藩に圧力を加えるなどの工作も展開している。秋元但馬守は、松廊下刃傷事件での浅野長矩
の処断に関わっており、後に絵島・生島事件で大奥の腐敗を暴くなどのやり手であった。
こうした情勢下での、軍記物介入工作の概要が、山本氏によって下記のように整理された。
- 享保元年(1716)十一月十日の書付にて、吉川家が、宮川忍斎『関原記』に、「吉川家文書」を引用した記述を書き入れるよう指示した事が確認できる。
- 正徳三年(1713)七月三日、まだ刊行されていない香西庄左衛門『南海治乱記』に、秀吉から吉川元長への感状を掲載するよう、吉川家が香西に依頼している。
- 享保三年(1718)、『南海治乱記』を再編して『南海通記』が成立するが、その際、吉川家関係文書25通が追加編入されている。
また、
- 蓮得院の享保元年(1716)十一月三日書状にて、「密かに見合わせ吟味いたされ」「その外へは隠密いたし候へ」とある。
- 享保元年(1716)十一月十日の書付にて、「『関原記』『陰徳太平記』が世上に現われれば、萩藩からも家筋の儀との関連で問い合わせがあるであろう、その際の返答の仕方としては、
『七年以前(1710)、御本家へ御家筋の儀、仰せ入れられ候時分、家中の者ども、いかようの儀と御本家へ申し入れ候かと不審あるべく候とのことにて、吉川御家柄の儀、
その節、御家来の者どもへ御知らせ候て、とくと承り申し候。さようの事、転々いたし、世間へひろまりたるにてこれ有るべし』と応対するように」とある。
これらにより、吉川家の軍記物介入は、秘密裏にして意図的な工作であった事が解る。
山本氏が調査された岩国徴古館の所蔵文書は、具体的には下記の通りである。
- 「梅月堂書状其外」のうち梅月堂(香川宣阿)の書状
- 「梅月堂書状其外」のうち包紙ウハ書に「陰徳記板行成就之上世上被差出候儀勝手次第ニ被仕候様ニ」とあるもの
- 「陰徳記之儀ニ付伺書之写」のうち包紙ウハ書に「此本書二月ノ十五日使ニ江戸へ被差越候也是状扣共ニ有之」とある一群
- 「梅月堂書状其外」のうち包紙ウハ書の日付が「申ノ十一月十日」とあるもの
- 「戸川幸大夫筑前へ被差遣候時御用之一途」
- 「南海一覧に関し筑前へ吉川の事申入」
- 「筑前香西庄左衛門より、南海通記差上候に付、吉川武大夫より飛脚を以、金五百疋被遣」
- 「香西本立へ金五百疋被遣。南海通記成就故か」
- 「関原記について」
以上が、山本氏論文の成果の概要だが、以下に福原の考察を加えたい。
まず、岩国・吉川家が、『陰徳太平記』板行の許可を宝永三年と享保元年の二度出している点だが、
吉川家が、軍記物への介入を家格宣伝活動の戦術の一つとして明確に意識したのは、享保元年前後と見られる。
少なくとも、毛利家との確執が表面化するのは、正徳元年十月以降であり、
それ以前に、軍記物の刊行を吉川家のために積極的に利用しようとする発想が具体化していたかどうかは、
慎重に検討する必要があろう。
また、その考察においては、時代による日本の出版文化の普及状況を踏まえる必要があろう。
香川宣阿が『陰徳太平記』の原案を完成させたのは、吉川家が家格活動のための戦術としての活用を考えるより以前であるとすれば、
宣阿のそもそもの制作意図を正当に理解しておくべきである。
宣阿の父・正矩が完成させた『陰徳記』は、既に吉川家に上程されていた。二代目の広正は、これを世間に公表する事を好まなかったが、三代目・広嘉は「御家御武勇の儀」を世間に喧伝するよう宣阿らに指示した、とされる。
父の『陰徳記』を大幅に増補改定した『陰徳太平記』は、宣阿の自序によれば元禄八年(1695)には概略完成していたのである。
この時、宣阿は数え年で49歳。
これを吉川家の家臣4名が元禄十一年(1698)に読みあわせし、
一部、吉川家の耳に立つ部分はあったが、宝永三年(1706)に出版の許可が下りた。
宣阿60歳。確かに高齢である。
しかし宣阿は、宝永五〜六年に『旧記』の閲覧を行っており、これをもとに原稿の補強を行なったと推察される。
蓮得院が「家筋の儀」を萩藩に申し入れたのは、翌宝永七年(1710)、萩藩の返答は正徳元年(1711)であった。
宣阿64〜65歳。
そして最終的な許可は、享保元年(1716)、実際の出版は翌二年(1717)、宣阿70〜71歳。
宣阿は、享保二十年(1735)、89歳で大往生を遂げる。まさに執念の長寿としか言い様がない。
ひとたび出版されるや、その影響力は絶大であった。
元文三年(1738)から寛保五年(1741)にあらましの完成を見た萩藩の『新裁軍記』に、
「陰徳太平記は岩国の香川某記したり。諸家他家混雑し其誤殊に多く、採録するに足らざれども、書の体実録の様に信仰する人多きなれば、異説を挙げて論駮し、誤りを正すなり」
とし、発行から20余年を経て、萩藩においても影響力の大きさを看過できないほどになっていた。
また、文政八年(1825)完成の『芸藩通志』においても、『陰徳太平記』が地域史研究のバイブル的存在として、他の軍記物と一線を画す信頼を得ていた事が伺われる。
それは、
『陰徳太平記』の成立から版行に至る、その特異なまでに雄大な紆余曲折のプロセスを思えば、
歴史的必然だったかもしれない。
では、吉川家は具体的に検閲を通して、どこを書き換えさせたか、というと、享保元年のぎりぎりの段階でもなお、「毛利三家之事」という条が添削の対象として火種を残していた事が知られる。
正矩『陰徳記』との比較で推測できるのは、元就が当初、陶晴賢の謀反に荷担していた事実が、『陰徳記』では正確に捉えられているのに、
宣阿『陰徳太平記』では、元就が一貫して陶晴賢許さずの姿勢を貫いていたことになっている。
これは元禄期の赤穂浪士に見るような武士道の美学の影響を受けたものであろうし、
毛利元就のダーティな側面を完全に消し去らねばならない、という吉川家のナーヴァスな気配りのようにも見える。
吉川家の戦術は、あくまで吉川家の功績をさりげなく演出する事であって、
主家の悪口にあたるような事は是が非でも避けようとした。
一方で興味深いのは、吉川元春の正室を「稀代のブス」と決め付けている点である。
これは吉川広家の時代であれば、主君に向って「お前の母さん、デベソ!」と囃し立てているようなものであり、
信じがたい一節である。
事実、成立時点で吉川広家が存命であった可能性がある『安西軍策』には、この一節はない。
しかし香川正矩の『陰徳記』に現われ、宣阿の『陰徳太平記』に継承されている。
香川正矩は、吉川元春の室が熊谷家の娘であることから、
主家への配慮よりも、ライバル熊谷家の栄達に対する嫉妬を優先して、
このような記述を加えたのであろうか。
二代目・吉川広正は、この一節だけ見ても、正矩の制作動機を苦々しく思い、後援を拒否したのかもしれない。
それにしても、時間をかけ慎重に検閲したはずの吉川家が、最終的にその一節の変更を求めることなく出版を許可した事も不思議である。
或いは、
『陰徳太平記』が香川宣阿・個人の創作活動に拠るものであって、吉川家には一切関わりがない事を示す好い証拠になるから、
という理由で、むしろ積極的にカモフラージュを仕掛けたのかもしれない。
吉川家の家格を巡る萩藩と岩国の確執は、
元禄六年(1693)の四代目・吉川広紀の急死を契機に、蓮得院をキーパーソンとして根深い問題として尾を引くが、
その時期によって、情勢の複雑な変化があり、
『陰徳太平記』の刊行への動きを、吉川家がどうハンドルしていくか、についても、一筋縄ではいかない、葛藤や迷いがあったとも考えられる。
はっきり云えることは、
父や一族の先人から引き継いできた毛利一族の軍記物を完成させるという仕事は、
宣阿にとって、藩命を全うするという事務的な動機ではなく、唯一の自己実現手段であり、
その執念なくして『陰徳太平記』が陽の目を見ることはなかったであろう事である。