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平成十八年三月一日
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Samurai

(3) 碧蹄館と幸州山城

輝元軍と隆景軍は、ウンチョン(熊川=現在のチネ(鎮海)市熊川洞)から北上して慶尚北道のケリョン(開寧=現在のキムチョン(金泉)市開寧面)に達した。 輝元軍はその地に留まり、隆景軍は5月下旬、ソウルに入った。 ソウルは、5月2日夕方、加藤清正がナンデムン(南大門)から、小西行長がトンデムン(東大門)から、先を争って入城し、占領していた。

朝鮮王は、小西・加藤軍の入城に先立って、ソウルからピョンヤンに逃れ、小西がピョンヤンに迫ると義州に逃れて、 明国の遼東巡撫に援軍を要請した。

小西軍は、6月14日、ピョンヤンを占領した。

隆景は、その後、全羅道(クァンジュ(光州)広域市などがある半島南西部)の経略に没頭するが、 輝元は、慣れない異郷の空気と水によって病に倒れ、ケリョンから動きが取れなくなっていた。

ケリョンの西方には、李朝有数の窯元・キェリョン山(標高845m)があり、 輝元軍は、陶器を奪い、陶工を拘留した。これが萩焼の起源となる。

7月7日、隆景は、全羅道・熊「?(山+見)」を守る全羅判官・李福男らを攻め、これを敗走させた。 隆景は敵兵の死体を集め、路傍に埋葬し、いくつかの塚を築き、そこに

「弔朝鮮国忠肝義胆」

の八字を書した標木を建て、篤くその霊を弔った。これは、朝鮮サイドの史書に記された故事である。

隆景は、13日ごろ忠清南道・クムサン(錦山=錦山郡錦山邑)をあとにして慶尚北道・ケリョンへ向った。輝元の病状を知ったからであろう。 隆景は恵瓊と諮り、8月3日、秀吉に医師・曲直瀬(まなせ)道三を朝鮮に派遣し輝元を診察させる事を要請した。 道三は、かつて食道癌に倒れた毛利元就を診察し、一時回復させた名医である。 秀吉は、道三の派遣を了承すると共に、病状により帰国するか、ケリョンにとどまって曲直瀬の治療を受け続けるかするよう、輝元に対して優しい気配りを示した。

ソウルにあった諸将は、明軍の大挙して南下するのに備え、全羅道・慶尚道を守衛していた第6軍・第7軍の北上を要請した。 隆景は、ソウルに向かい、軍議に参加した上で、ケソン(北朝鮮開城市=板門店付近)の守備を担当する。 ケリョンで療養中の輝元は、配下の部将を北上させた。

広家(32歳)は、8月16日、ムンギョン(慶尚北道・聞慶市)を発し、10月15日、ケソンに到着した。 立花宗茂は、隆景が去った忠清南道・クムサンを守っていたが、9月21日、ケリョンに到り、 そこで輝元本隊1万5千の兵の統率を代行する毛利元康(33歳)と合流して、 10月17日、ソウル入りし、23日、ケソンの隆景指揮下に入った。

当初、明の援軍の動きは鈍かったが、李如松が頭角を現わし実権を掌握するや、 12月、兵4万3千の騎馬隊を率いて南下を開始、 義州に朝鮮王と会見して、一撃にて倭軍を殲滅せんと、意気軒昂、大言壮語した。

明けて文禄2年1月7日、明軍によるピョンヤン総攻撃が始まった。 小西軍1万は、大軍の接近に気づかず無防備であり、なすすべなく落去した。

ピョンヤンからソウルに至る経路においては、 大友が鳳山を、黒田が白川を、隆景がケソンを守り、 立花宗茂・吉川広家(33歳)は牛峯付近に、毛利元康(34歳)はコヤン(高陽=高陽市高陽洞)に陣した。

小西行長は、鳳山に逃げ延びたが、大友が退却した後だったため、更に落ちて白川の黒田を頼った。

ソウルの宇喜多・石田・増田・大谷は、協議の上、 これら諸将を隆景の指揮下に一本化し、明軍の南下を食い止めさせようと考え、 伝令として恵瓊をケソンに派遣した。

1月13日、恵瓊と協議した隆景は、白川の黒田長政をケソンに呼び寄せた。 宗茂・広家・元康もまた、ケソンに集結した。

秀家と石田ほか3奉行は、日本軍の兵糧・兵力に対し、明軍が予想以上に優勢な勢力である状況を理解し、 半島内の日本軍を全てソウルに集め、ソウルの地で一大決戦に臨むべきと考え、 14日、大谷吉継をケソンに派遣し、軍議を開いた。

隆景・長政は、ケソン決戦を主張したが、

「もしケソンとソウルの間の大河・リンジンガン(臨津江)が、 春来とともに氷が融けでもしようものなら、貴軍の進退は甚だ困難となりますぞ」

大谷吉継もまた熱弁を振るい、結局、隆景の方が折れ、21日、全軍ソウルに退却した。

ソウル駐在組(宇喜多秀家ら)は、城内での籠城戦を主張したが、 隆景は、城外を出て、野戦で勝敗を決すべしと主張した。

隆景「なしてか言うたらのー、ソウル城がナンボ堅固じゃゆーても、いっぺん包囲されたら、 外からの援助は、ありゃーせんのじゃけー、兵糧がみてて(底を突いて)しもーて、いずれ降伏するよりほか、術がのーなるけんよ。 信長・秀吉配下で戦うてきた諸君は、劣勢に処するの道を知らんようじゃのー。 敵は大軍じゃけ、逐次退却すりゃー、逐次追撃されるだけでのー、先に疲労困憊するのんは、わしらの方に決まっとろーが。 こーゆー時は、乾坤一擲の勝負に出てのー、死中に活を求めるほか無いんよ」

今回は、血走った隆景の眼と、広島ヤクザの凄みが、場を圧倒した。

明軍は、徐々に後退する日本軍を見て「敵、懼るるに足らず」と判断し、 24日ケソンに入り、25日にはパジュ(坡州市)に進駐した。

日本軍は、立花宗茂を先手とし、2番手に隆景軍を粟屋四郎兵衛らに預け、 3番手は、毛利元康・小早川秀包・筑紫広門・天野元政(元就7男・母は乃美の方)、 4番・吉川広家、5番・黒田長政、その後に、宇喜多秀家軍・三奉行軍がそれぞれ一隊をなして続いた。

隆景は、ソウル・ナンデムン(南大門)に布陣し、総指揮を執る。

26日未明、 明軍の副総兵・査大受は、朝鮮の将・高彦伯とともに兵数百で ピョクチェグァン(碧蹄館=現在のコヤン(高陽)市碧蹄洞)の南に出て、 日本軍を偵察しようとしたが、 立花宗茂も、十時・森下両将を偵察に派遣していたため、 両軍が衝突し戦闘が始まった。

この時、数に劣る日本側は、60余名もの犠牲者を出した。

急を聞いた隆景は、援兵を出して敵偵察隊を撃退、更に宗茂と協議の上、 隆景は北進して「コヤン原」という地点の右方山下に布陣し、 秀包と元康を山上に置いて、機に応じて攻め下るよう指示した。 (この一帯は、小さな丸山が処々点在する地形である)

三奉行は、長政を通して隆景にソウルへ引き返すよう求めたが、 隆景はこれを拒否、その長政が前方の高地に繰り出して敵勢を観察しようとすると、 これもきつく制止し、隆景の下知を待つよう指示した。

そこへ三奉行の一人・大谷吉継がやって来て、ソウルに引き返すよう再度要求したが、

「ここで兵を引くと明軍の追撃を受け、よけいに危険じゃ。むしろ諸将は、臨機応変に撃って出い」

と、にべもなく大谷を突っぱねた。

大谷「隆景殿、奉行衆の言は、すなわち太閤殿下の意ですぞ」

隆景「ん?あんたあ、誰にもの言うとるんな」

既に武闘派と文吏派の確執は、ソウルにおいて尖鋭に現われつつあったが、 はっきり武闘派のスタンスを取る隆景を見て、溜飲を下げた武将は少なくなかったであろう。

パジュの李如松は、偵察隊が日本兵を多数討ち取って帰還したことに機嫌をよくし、 自ら総軍を指揮して、ピョクチェグァンへ向け出陣した。

対する隆景軍は、布陣の地で静かに敵の到来を待つ。 これは一つには、わが軍の愚鈍さを敵に印象づけるためであり、 更には、兵に体力の休息と精神の集中を与える意図もあった。 後日、大谷吉継は、これを聞いて隆景の遠謀に感嘆したという。

李如松の軍は、午前11時ころ、左脇・中脇・右脇と称する三隊を鶴翼のように広げ、隆景軍に襲い掛かってきた。 左脇の大将は、楊元・李如梅・査大受等。 中脇の大将は、李如柏ほか。 右脇の大将は、張世爵・祖承訓ほか。 それぞれ兵数1万1千を超え、ほとんど全軍騎兵である。

隆景軍は、当初苦戦していたが、秀包・元康・宗茂らが山上から攻め下ると、明軍は、たちまち壊乱状態に陥り、敗走したという。

諸将の軍忠報告に対する2月2日の秀吉の感状によると、 隆景軍は敵数千討ち取り、宗茂・秀包・元康らは敵数百となっている。 朝鮮側の史料では、李軍は千余騎だったという。

李如松は、26日夕刻、パジュに帰着し、翌日、ケソンに退却した。 また、加藤軍が後方のピョンヤンを襲うという風説が立ったこともあり、 李如松は大事を取ってピョンヤンまで退却したのである。

時に、明軍の南下に呼応して、ソウルを流れる漢江の下流にあるヘンジュ(幸州=高陽市幸州洞)山城にて、 全羅道巡察使が反日の挙兵をしていた。

李如松を退けた日本軍は、 2月、このヘンジュ山城を攻めたが、 この時は、隆景が病を得たため、先手の小西行長と2番手の三奉行が主導権を握っていた。 3番・黒田、4番・秀家、5番・広家、6番・秀包・元康、7番・隆景(但し家臣、兼久・裳懸・鵜飼・児玉らが兵を預かる)という編成だった。

広家と元康は、一定の戦果を挙げたが、 主力である三奉行の拙い采配により、日本軍は惨敗し、ソウルに敗走した。 (韓国側では、朝鮮の役の三大戦勝の一つであり、ヘンジュ山城跡は綺麗に整備され、観光客も多く訪れる名所である)

敗戦であるから当然でもあるが、広家の戦功が秀吉に耳に達する事もなかったのである。

この時、広家は敵の放った矢に腕を射抜かれ負傷、戦場で初めて死の恐怖に怯えた。

「戦争は、会議室では起こっとらん。戦場でやるもんよのう・・・」

この時すでに広家の心情は、文吏派に対する軽侮、武断派との仲間意識に、はっきりと傾斜していた。

2月末、ソウルでの軍議において、ソウル撤退が決議された。

3月3日、秀吉渡海の知らせがソウルに伝わり、 隆景と秀家は、兵糧不足の窮状を訴え、渡海延期を秀吉に懇請した。 当時、ソウルの日本兵は、総勢5万4千、うち隆景・広家配下の兵は、9,552人であった。

3月中旬、明の使者がソウルに来た。 日本軍は、明から秀吉への正使・副使派遣を要請、 それを受けた明の使者、謝用梓・徐一貫がソウルに到着した。

4月7日、ソウル撤退を承認する秀吉の使者がソウルに到着したので、翌日、諸将は使者を伴ってソウルからプサンへ向った。

5月中旬、名護屋の秀吉とプサンの隆景の間で頻繁に書状が往来し、和平交渉の詰めが打ち合わされた。

23日、小西・三奉行は、謝・徐両使を連れて名護屋に到り、秀吉に引見させた。

28日、秀吉は7か条の講和条件を挙げて、明使を本国へ返した。

秀吉は、和平交渉の間も、出征軍にプサン浦一帯の防御を固めさせた。 恵瓊もまた、輝元軍から借りた兵を動かしてウルサン城(慶尚南道)に入城した。

7月13日、隆景はカドクド(加徳島=プサン西南の小島)の本城・支城の修築の設計図を秀吉に提出し、承認を求めた。 秀吉は、カドクドに武器・兵糧を貯蔵する事を、細かく品目別数量を指定して隆景に命じていたのである。

しかし秀吉は、隆景がピョクチェグァンの戦いの後、結核のような症状に苦しんでいる事を知り、 輝元の病状も中々回復しない事から、 同13日に書状を発し、輝元は秀元・広家に後事を託し、隆景は、宗茂・秀包らに家臣を預け、 両人とも早々に帰国するよう命じている。

輝元は、一足先に9月に帰国したが、後事を託された広家も病に倒れてしまい、 閏9月、隆景と広家は、恵瓊とともに帰国した。

10月5日、隆景は、石見・吉川氏の吉川経安に対し、

「拙者、両年の寒苦に、殊の外くたびれ申した」

と漏らしている。

(つづく)

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