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平成十八年六月十九日
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Samurai

(最終回) 太平の彼方に

かつて吉川広家は、 家臣の二宮俊実に過去の記憶を語らせていた。 今日「二宮佐渡覚書」として文書が残る。 二宮は、慶長8年(1603)、81歳で他界した。

覚書は、天文9年(1540)、尼子晴久の安芸吉田来襲のあたりから、 永禄9年(1566)、尼子義久の毛利氏への降伏のあたりまでをカバーする。

これは、二宮が18〜44歳の期間であり、概ね彼が第一線で活躍していた時期に当たる。 また、毛利氏が元就のリーダシップ下で急速な発展を遂げる時期でもある。

広家が、戦国の生き証人としての二宮に、 その現役時代の記録を語らせたのは、 毛利元就による帝国建設の軌跡を、 文書として、後世にしっかり遺しておきたい、 と考えたからであろう。

それは、毛利両川の一翼を担う立場からの使命感だけではなく、

「関が原の敗戦後、112万石から36万石へ削封の憂き目に遭ったのは、 広家が主家に無断で徳川に通じたからだ」

と、毛利一族の敵視を一身に受けた状態から、 何とか吉川氏の立場を改善したい、 という打算もあったに違いない。

そして、二宮の口述記録は、彼の存命中にしか制作し得ないのだから、 「二宮覚書」の成立時期は、慶長5年から8年(広家40-43歳)の間である可能性が高いと見られる。

戦国・毛利氏の歴史を回想し、記録にとどめる営みは、 生き証人が死に絶えるまで継続した。 吉川家臣、森脇春方の覚書は、元和4年(1618)、広家(58歳)に提出され、 元和7年(1621)冬、吉川家から毛利家へ進献されたのである。

岩国では、その後、二宮・森脇両覚書の影響を受けた「安西軍策」という軍記物が著される。 その製作意図は不明だが、 幅広い読者を意識した劇画タッチの描写が目立つ私的な著作物である。 著者も不明だが、吉川家の重臣・香川春継が、極端にヒーロー化されている事から、 香川一族の者である可能性が高い。

その後、正真正銘、香川氏の一族である香川正矩が、 「陰徳記」という軍記物を完成させたのは、 彼が48歳で没した万治3年(1660)以前の事であり、 内容的には「安西軍策」を、 彼が閲読できた岩国・吉川家の文書類と照合して補強した状態である。

「陰徳記」の制作は、「安西軍策」と同様、藩命によるものではなかったと思われる。 また、「陰徳記」は広家の父・元春の正室を「希代の醜女」と断定しているが、 これは「安西軍策」にはない記述であり、 吉川藩に対して毒を含む内容と云える。

「陰徳記」は、正矩没後、長子の友人による序文を得て体裁を整え、 寛文5年(1665)、吉川家に進献されたが、広正(65歳)および3代目当主・広嘉(46歳)は、 この作品を黙殺した。内容の一部が、不興をかったらしい。

翌年、広正は没した。享年66歳。

香川正矩の次子・景継は、成長して京都に上った。 延宝7年(1679)、京都で歌会に参加する景継(33歳)の存在が確認できる。 歌人、あるいは、儒学者として生計を立てる事を目指すかたわら、 父・政矩の遺業である「陰徳記」を、 木版印刷により出版し、 広く日本全国の読書家に提供したい、という考えがあったのではないか。

当時、上方では木版印刷による書物の大量生産が活発になっていたが、 地方で、独自に出版できる状態には達していなかったからである。

貞享元年(1684)、吉川氏の家格について、毛利家と吉川家の間でヒト悶着が起きた。

というのも、幕府の「三河記」という史書の編纂のため吉川家が提出した史料に、

「吉川家は歴代、松平長門守(萩の毛利宗家)の家来どもです」

と毛利家が添書し、 吉川家は、毛利家に苦情を申し述べたという。

貞享4年(1687)、香川景継(41歳)は、二条派歌学の伝授を受けるため出家した。 これ以後、景継は「宣阿」と称する。

元禄8年(1695)、宣阿(49歳)は、「陰徳記」に自ら序を記している。 後に「陰徳太平記」として有名な長編歴史小説は、 この頃、既に大方の完成を見ていたのかもしれない。

「防陽香河昨木軒平正矩無適(香川正矩)が編集し、 洛下梅月堂沙門堯真宣阿(香川宣阿)が補足した」

と述べている。

「陰徳記」「陰徳太平記」を比較すると、 まず、文章が格段に洗練され、読みやすくなっている。 また、様々な軍記物類を参照し、畿内や九州の情勢を書き加えた事が、 増補の主な実態であった。

これらは、

「楽しい読み物として、世間に広く普及させたい」

という宣阿個人の目標に添うものであり、 元禄8年時点で、 彼個人の努力により、その域には達していたと推理する次第である。

さて、翌元禄9年(1696)、吉川家4代目・広紀が、39歳の若さで死亡した。 萩に滞在中の急死だったので、岩国の者たちには、不穏な憶測を生んだ。

しかも家督を継いだ幼主は、数え年の2歳である。 岩国・吉川氏の命運は、出家した正室・蓮得院の柔らかい双肩にかかった。

蓮得院が考えた重点政策は、吉川家の家格の回復であった。 問題は、その実現手段である。 吉川家に、毛利家や幕府を思い通りに動かす直接のパワーは存在しない。

蓮得院は、当時、全国的に流行の兆しが広がっていた戦国期の軍記物に注目した。

聞けば、足元の香川家の者が、 毛利家の軍記を京都で出版しようと考え、 吉川家へ版木製作費の援助を求めている、というではないか。

確かに「陰徳記」ほどの分量ともなると、版木の制作に膨大なコストがかかる。

毛利家の急成長の過程で、いかに吉川氏が重要な役割を演じたか、 民間人の大衆小説の中とはいえ、さりげなく都合の好い記述を挿入させる事で、 毛利家の吉川家に対する冷遇について、世間の吉川家に対する同情票を集める事ができよう。

また戦国期の毛利家の発展過程を振り返る事自体に意味がある。 当時のいわゆる毛利両川体制は、 元就の三子が、毛利・吉川・小早川という、それぞれ独立の家柄でありながら、 元就の遺訓を守り、両翼の吉川・小早川が、毛利宗家を支えるという構造により、 中国10か国の太守へと大発展を遂げる事ができた特異な事例であった。

その原点に帰れば、

「吉川家は、萩藩(毛利氏)の庶流である長府・徳山より家格が高いはず」

という主張も、歴史観としては自然に納得できるであろう。

さっそく元禄11年(1698)、吉川家臣4名による「陰徳記」が読み合わせが実施された。 内容チェックである。

この段階で、吉川家の官僚たちは、 毛利元就の謀略家としての色合いを薄め、儒教的な聖人君子像に近づけるように指導したと推測できる。

宣阿「陰徳太平記」は、正矩「陰徳記」を増強する事はあっても、 記述の大筋を改変する事は、原則おこなっていない。 唯一の例外は、元就の人物像についてである。

「陰徳記」では、元就が当初、陶晴賢に同調しながら、 ある日突然、裏切りの兵を挙げた事を、史実の通りに描いているのに対して、 「陰徳太平記」では、元就が徹頭徹尾、陶晴賢の謀反に反対しており、 正義の挙兵である点を強調する。

「吉川家が、背後で著者を操作して、毛利元就のイメージを傷つける作品を世に送り出し、 毛利宗家の名誉を汚した」

という、批判を受けるリスクを回避しようとしたのであろう。

背に腹かえられぬ宣阿は、 何ごとも吉川家の意のままに原稿を書き改めたが、 それ自体、相当な体力的負担であっただろう。

にも関わらず、岩国での詮議は長引き、中々出版の許可が下りない。 業を煮やした宣阿(60歳)は、吉川家に決定を催促する書状を送る。

「出版の準備が整ったとは祝着至極。 梅月(宣阿の事)は、かなり齢をとっているようだから、 少しでも早く許可を与えなさい」

蓮得院は、そのように指示を出した。 時に宝永3年(1706)2月14日。

しかし、どのような経緯からか不明だが、出版は直ちに実施されず、 翌々年、岩国の古文書を収蔵する屋敷で、 「旧記」という書物を閲読する宣阿(62歳)の姿があった。 この頃、続々と類書が世に現われていたので、 参考文献を同じくする一節は、類書に先を越され、盗作よばわりされる可能性が生じたため、 吉川家秘蔵の文書で、ネタのオリジナリティを加味する必要があったのかもしれない。

宝永7年(1710)、蓮得院は、満を持していたかのように、 遂に毛利宗家に(ペンによる)攻撃を開始した。

「本家が世上に唱える事には色々まちがいがあります」

吉川家が、幕府の覚えも目出度い独立の諸侯であり、 長府・毛利家や徳山・毛利家よりも家格が上位である、 そのように認識を改めるよう、萩・毛利宗家に要求したのである。

ほぼ完成した「陰徳記」は、あたかも吉川家のテポドンであり、 ミサイル発射の仕掛けをセットした上で、大国との交渉に臨むごとくである。

また、この時、蓮得院は、実家の縁故を頼りに、 秋元喬知(62歳。宝永4年まで老中。その後も隠然たる影響力を保持)を動かし、 萩藩に圧力をかけたという。

が、それが火に油を注ぐ形になり、翌正徳元年(1711)、毛利宗家は、

「岩国は、最近になって家格が下がったと主張するが、 吉川家は、当初から毛利家の家来の家筋である」

と、にべもなく、訴えを棄却した。が、この後も当分の間、双方、口げんかの応酬が続く。

ここらで、一つテポドンを発射しておくべきであろう。

隠密裏に、宣阿の「陰徳記」出版を支援し、 そのサブリミナル効果で、 世間を吉川家同情論に誘導する狙いである。

正徳2年(1712)、この頃、ついに版木の完成を見た。 その書名は、いつしか「陰徳記」ではなく「陰徳太平記」に改称されている。 鎌倉末期から南北朝時代を描く「太平記」に名を借りた軍記物が続々と世に現われ、 一世を風靡したので、より大量に売れるように、 流行に便乗したものと思われる。 「陰徳記」では、何とも地味である。

しかし最終的なゴーサインは、なお延引し、 再び宣阿(70歳)が悲鳴の書状を発したのは、享保元年(1716)8月27日であった。いわく、

「出版の準備は、ほとんど完了しています。

印刷が済んでいるのに出版が延引すれば、色々と版元の本屋が迷惑します。

出版を留保している間にも、類書が続々と世に現われ、 他書と内容が重複する箇所について、更に書き直しが必要となり、 ついには出版そのものができなくなる恐れもあります」

全て、事業者としての切実な悩みであり、 なおかつ、宣阿自身、余命いくばくもない年齢でもある。 父の代からのライフ・ワークである事を考えれば、 宣阿の焦燥は察して余りある。

吉川家も、これには機敏に反応し、 9月10日、有福与左衛門・香川舎人・吉川武大夫・今田伊織の連名で、 宣阿に出版の最終的な許可を下した。

ここまで延引した理由として、 それまで、徳川家が幼児を将軍に据え、 家臣の集団指導体制で幕府を支えるという、 比較的不安定な世情において、 物議をかもす可能性のある行動を起こす事に、 遠慮があった旨、言い訳している。

確かに、7代将軍・家継は、正徳2年(1712)、4歳で家督を相続、 この享保元年(1716)、8歳で没したが、 今は、血気盛んな気鋭の将軍・吉宗(33歳)の代である。

が、何と言っても、「陰徳太平記」は吉川家のテポドンであり、 実際に発射するとなると、 諸般の情勢を睨みながら、中々決断できなかった面はあったであろう。

かくて、 「陰徳太平記」は、享保2年(1717)、ついに陽の目を見、 以後、わが国の読書子に絶大な影響を及ぼした。

現代の戦国史マニアにおいても、 吉川元春や吉川家は、総じて好印象を得ている。

吉川広家に関しても、 これは、司馬遼太郎「関が原」などの影響も加味され、 毛利家を救ったのは、広家の好判断によるという認識が広く普及している。

では、実際の岩国・吉川家はどうか、 というと、 幕末、長州征伐軍に対する最前線の受け口、 という岩国の地理的要因が大きく影響し、 毛利家と吉川家の和解が成立した。

そして、慶応4年(1868)3月13日、 ようやく「岩国藩」が正式に誕生したのである。 版籍奉還まで、約1年3か月の命脈ではあった。

現在、地元・山口県では、 下関市・周南市・岩国市の間に、 長府藩・徳山藩・岩国藩の対抗意識は、 尚、横たわっており、 家格の順位付けについては、 結局のところ解決していないように思われる。

が、この問題の根本は、 広家の関が原における決断が、 本当に毛利家の将来を案じ、 わが身を投げ捨てる思いからの純粋な誠忠だったのか、 という点である。

この命題こそ解明が必要なのである。

吉川家の史料保存状況は、 萩藩に勝るとも劣らないシッカリしたものであるが、 当の広家自身に、余りに後世の見る目を意識し、 文書の中においても、巧みに自己演出している向きが感じ取れる。

真相は、まだまだ藪の中かと思う。

(終わり)

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