安芸・毛利一族の初代・毛利季光(すえみつ)は、鎌倉幕府創業の功臣・大江広元の四男である。
「毛利」という姓は、季光が、毛利荘という荘園(神奈川県厚木市)に本拠を構えた事に由来する。
毛利荘は、鎌倉から日帰りで往復できる距離にあり、大江一族にとって、数ある所領のうちでも、中枢的な機能が
期待される領地であったと思われる。
が、土着の毛利氏が館を構えている間は、広元は毛利荘の地頭職に任ぜられていないか、
いたとしても、毛利荘を実効支配するには到らなかったのであろう。
土着の毛利氏は、建保元年(1213)の和田義盛の乱に味方し、族滅した。
四男の季光(13歳)が毛利荘を相続できたのは、長男・次男が、それまでに十分な所領を相続しており、
三男は他家に養子に入っており、それぞれ、別の拠点を持って自立していたからである。
長男と次男は、広元が出羽国(山形県)に得た広大な所領を相続していた。
寒河江(さがえ)荘(寒河江市、大江町、西川町等)と長井荘(長井市、米沢市等)がそれである。
広元(42歳)が寒河江・長井両荘の地頭職についたのは、文治5年(1189)、奥州・藤原氏討伐の論功としてである。
頼朝のブレーンとして活躍した広元は、自らは一兵も動かすことなく、
西の旧・平氏領、北の旧・藤原領の、鎌倉御家人への分け前に預かる事ができたのである。
筆者(福原雅俊)は、会社の連休を利用して毛利一族の祖先の地を訪ねるのを趣味の一つにしている。
これまで、季光の屋形の候補地として、神奈川県厚木市の三島神社、飯山・金剛寺に行ったし、
南北朝の動乱に先立ち、安芸に集団移動した越後の毛利時親の居城・南条(みなみじょう)城の跡地、
佐橋神社(新潟県柏崎市)にも行った。
季光の祖先・大江氏を遥かに遡れば、古代の埴輪の制作を担当した土師(はじ)氏である。
その土師氏をしのび、奈良市の菅原はにわ窯公園にも行ってみた。
が、広元の長男や次男は、毛利一族にとって、親戚ではあるが、祖先とは云えないため、
訪問の対象にはしなかったのである。
ところが、ある拍子に、
長男の子孫である寒河江氏の家紋が「一文字三星紋(いちにみつぼし)」である事を知った。
また、岩国・吉川家ゆかりの方が、遠く、東京オリンピックよりも昔に、お城巡りという趣味にはまり、
その駆け出しの頃、城郭関係の出版のため、寒河江周辺を調査されていた事が判明し、
ひょんなきっかけで、地元研究者の文章をご提供いただいたのである。
筆者にとって、趣味も実生活も、中国地方から飛び出る事は稀であるのに、
はるか山形県の超ローカルな世界に深く分け入っていける喜びは並大抵ではない。
何とかして現地を訪問したいという思いが高じるとともに、
その時に備え、十分予習しておかねば、という一念で、この稿を起こす。
広元の長男、その名は親広(ちかひろ)。
何の因果か、この人物は、僻遠の地に自ら土着した事により、
その子孫も端倪すべからざる地元勢力として戦国末期まで存続する、
その基礎を作ったのである。
本稿は、彼を寒河江親広と呼び、彼とその子孫の足跡を辿ろうとするものである。
(つづく)