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私が降り立ったJR坂田駅は、
滋賀県米原市の宇賀野(うがの)と飯(い)の境目付近にある。
それにしても「飯(い)」という町名は、三重県「津」市に匹敵する珍名だが、人口500人の町民は、
「飯村(いむら)」という、古くから言い習わされた呼び名を使っているようだ。
宇賀野は、戦乱で夫を失った山内一豊の母・法秀院が、幼い一豊を連れて流れ着いた長野家の所在地であり、
飯村は、一豊の妻・千代が生まれた若宮家の所在地である。長野家の屋敷地の少し先に、法秀院の墓地がある。
こういう場所は、いわゆる季節もので、NHK大河ドラマが終わらないうちに訪れるのがよい。
大河ドラマのキャストや今後のストーリーとともに、ゆかりの地の散策コースを詳しく図示したパンフレットが、
JR各駅に大量に山積みされている。インターネット検索でも入手できない実用的な地図だ。
12時55分に到着した私は、
13時55分の電車に乗る予定としており、滞在時間はちょうど60分である。
駅前に「近江母の郷コミュニティハウス」という急造の施設があり、
コインロッカーがあれば、とも思ったが、
中の様子を確認する手間を惜しみ、正面の一豊夫妻像を撮影して、そそくさと出発する。
長野家まで420m、法秀院の墓まで760mである。
今年限りかもしれぬが、ていねいに順路表示が設けられ、長野家は、入り組んだ住宅街の中にあったが、簡単に到達できた。
法秀院は、夫を失った後、親戚を転々とした末、この家に寄宿し、近所の子供たちに裁縫や行儀作法を教えていたが、
その中に、飯村から来た女子があり、後の一豊の妻となるのである。千代(仲間由紀恵)が居たのである。14歳ごろと云われる。
現存の家屋は、長野家の子孫の住居であるが、敷地内に地中から水が湧き出で、
生活用の水路を作っている所に、歴史情緒がある。
現在は廃屋である。なお近所に、ちゃんとした構えの長野さん宅があり、恐らく近い親戚であろう。
表札の下に「滋賀県民生児童委員」のステッカーが貼られ、地域の顔のようである。
そこから順路に従い、法秀院の墓地へ。
石垣の土台の上に墓石を置き、石柱で囲いを設けた立派な墓所である。
この墓は長野家の私有地内にあり、長野家は代々、法秀院の霊碑を祀り墳墓を護持していたのである。
墓の存在は、1790年、土佐藩の認知する所となり、1793年、
参勤交代の帰路にあった土佐藩主は、宿所にて長野市右衛門から法秀院の旧時を聞いた。
1825年、長野家は、墓守として、土佐藩から永代5人扶持を与えられ、1854年には、土佐藩により墓所の改修が行われた。
但し、高知で製作された石碑が、発送前に洪水で埋没し行方不明となり、墳墓は台石のみで石碑のない状態が続いた。
1893年、旧・土佐藩士であった長浜警察署長が墳墓の荒廃を憂え、山内公爵家が更に改修させた。
その後、1997年に法秀院顕彰会による改修が実施された。
よって、現状は、かなり真新しい印象である。
さて、駅に戻ると、はや13時25分であり、反対方向へ620m先の若宮家に行って帰れるかどうか、微妙である。
少し走らないと。が、ノートPC搭載のリュックが重い。そこで「近江母の郷コミュニティハウス」の中に入ると、
ロッカーは無いが、係員が3-4人も詰めていたので、荷物を預かってもらうことに。
で、脳梗塞発症後一週間にも満たない私は、
マラソンを始めたのである。
若宮氏の館跡は、ただの空き地かと思いきや、
立派な顕彰碑があり、 土産や関係図書を置いた仮設の小屋に、
ご婦人数名がたむろし、私に冷水を振舞ってくれた。奥のほうには、資料館のようなものもある。中々の力の入れようだ。
付近には、若宮氏の守護神・八幡神社と、その神社が元々あった「どじょ野」があったが、方向が少し違っているようなので、
「どじょ野」だけ訪問することにした。
神社の創建は、1400年ごろらしい。村民は此処を聖地とし、無遠慮に立ち入ると腹痛を起こすと云われた、と、案内板に書いてあるが、
それを読む者は皆、無遠慮に立ち入っている。
来た道を再び走って帰ったので、年齢層の高いコミュニティハウスの係員一同は、もう行ってきたのか、と呆れた。
電車のホームで汗を拭った。コカコーラのキャンペーンで、W杯タオルが当たったが、中々郵送されず、出発前に届いたばかりだったのを持参した。
手拭よりサイズが大きく、一日中、汗を拭っても、なお吸収力を保持するので、道中、重宝した。さて、次に降りたのは、言わずと知れた長浜駅である。
(つづく)
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