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福井駅構内で、端の外れのホームに向かう。
そのホームだけ、線路の終端がある。
JR越美北線である。
6:45発の2両編成の電車は、6:30ごろ入ってきた。
ぞろぞろと乗客が乗る。
私は、云わずと知れた一乗谷、朝倉氏遺跡を目指している。
が、その前にコンビニ食の朝食を済ませておきたかったので、
一人、ホームの椅子に留まった。
おにぎりと牛乳という組み合わせに、
ゆで卵2個。殻を剥き始めた途端、「あっ」・・・私は温泉たまごを買ってしまっていた。
宙に浮いた状態では半熟の白身が指の間から零れるので、
僅かな剥き口から卵全体を吸出し、口の中に添付のツユを補充して食した。
残った一つは、ホテルの夜食に取っておこうと思った。
いずれにせよ、車両の中でなくてよかった。
観光用の路線と思っていたが、
窓の外は、田園と調和しながらも、都市近郊の景観であった。
乗客は、何と越前東郷という駅で、みな降りた。
2両目に座っていた私に、運転手が歩いて近づき、
「大野方面の接続のバスは、一乗谷からは出ていませんが、
ここで降りなくても宜しいですか」と尋ねた。
「私は、一乗谷の朝倉氏遺跡を見学に行くのですが」
というと、運転手は、不審そうに立ち去った。
で、7:03、一乗谷で降りたのは、私だけである。
31号線という車道を歩いていると、右手の線路の向こうに墓塔などが並んでおり、
地域史研究マニアか、或いは専門的な調査団か、いずれにせよ、高齢者の集団がたむろしている。
西山光照寺跡である。
目と鼻の先のように近く、立ち寄ってみたかったが、線路を横切る道がないので、やり過ごす。
住宅街への脇道に入る。踏み切りがある。と云っても、遮断機はない。
先の電車は、駅に長い間、留まっていたが、そろそろ発車するのでは。
本能的な警戒心が湧いたが、踏切まで到達すると、
線路が剥がれていたり、砂に埋もれていたりしているので、驚いた。
2004年の水害で、線路が破壊され、一乗谷の先は、今もって不通のままなのだった。
歩いている道は、家が並び、商店もあって、ちょっとした目抜き通りである。
主婦や亭主が、気軽な服装で、朝の爽やかさを散歩している。
昨日の大雨のせいか、家と道路の間の水路は、あふれんばかりの水が勢いよく流れている。
春日神社の鳥居の前を通り過ぎると、まもなく、車道に出、下城戸に達した。
朝倉氏の城下町の入り口にある土塁である。痕跡はないが、門があったはずだ。
ここから一乗谷川上流の上城戸までを「城戸の内」という。
土塁の上に上ってみる。外側が池になっており、防御に意を払っていることに気づく。
車道の側道を少し進むと、遊歩道への入り口がある。
遊歩道は、山ぎわの平地を縦断する。一帯は、自然地形を利用して屋敷が造営された「ふくべ町地区」という、当時の町屋の跡地である。
路幅5〜6mほどの、当時の南北道路と東西道路が現在の遊歩道であり、町屋は発掘跡が保存されている。
東西道路で車道に戻り、車道の向かい側にある朝倉景鏡の館跡にいざなわれる。
敷地の周囲を土塁が囲っていたようである。向かい側に、なぜか中世の情緒が漂う山並みが迫る。
一乗谷城とは反対側の山である。
もう少し進むと、また車道の反対側に、壮大な「平面復元地区」が広がる。
現代の団地を髣髴とさせる整った区割り。各屋敷地に井戸跡。ある区画は墓地が集中する。
地元の伝承では、その辺りに寺院があったそうな。
発掘して、乳幼児の土葬の跡である事が解った。火葬が一般的だった戦国時代、
乳幼児に限っては別の考え方があったようだ。
この地区の中枢を占めると思われる屋敷跡は、門跡が二つある。中世の都市。異様な存在感。
さて、ここで、ようやくリュックが重くなり、休憩する。
まだ7:45ごろだが、日差しが強く、背中は汗だくである。リュックも濡れている。
濡れたリュックが、濡れた背中に接触する不快感、本能はこれを、重さ以上に拒絶する。
しばらくは、車道の側道を歩き、川向こうが芝生の公園っぽくなっているのに誘われ、橋を渡ると、
山の麓の方に、何か施設が見える。立派な唐門がある。これぞ朝倉義景館である。
義景は戦国時代に信長に滅ぼされたが、唐門は、義景を弔うため、寛文3年(1663)、
この地に松雲院という寺院が建立された際の山門である。
発掘跡が平面上に広がっているので、私は、唐門の内側にリュックを置いて、敷地内を歩く事にした。
まずは、屋敷の外側を固める土塁の上を歩く。やはり外側は、水を湛えた濠になっている。
敷地内には、語り始めればキリがないほど、主殿、台所、厩、風呂、祠、武者溜まりなど、いろいろある。
奥の方は庭園跡で、その隣に朝倉義景の墓所がある。
庭園は、土中に埋もれていたのを発掘して復元した。
墓所の方は、松雲院建立の頃に設けられたものである。
庭園の先に階段があり、上から遺跡の全容を見下ろせそうだったので、行ってみる。
中2階のような小郭が展望所になっている。ここからは、私のリュックもよく見える。
その上にも何かあるので、ついでに見ておこう。湯殿跡庭園であった。中世庭園にしては、
生々しく池の巨石が、鑑賞に堪える趣で配置されている。
庭石は地上に露出しており、名園があった事は以前から知られていたそうだ。
朝倉氏滅亡後に手入れはされていなかったので、中世庭園の趣をそっくり残しているという。
メインの巨石には、亀石、鶴石などと名前がつけられている。
さて、その先、土橋を渡って、また何かある。中の御殿跡であった。
礎石が並ぶ屋敷跡が二三軒。ここからは、川向かいの復元町並が見下ろせた。
さて、まだ、その先に、もう一つ別の削平地があり、庭園が広がっているようである。
諏訪館跡である。が、これ以上進むと、リュックから遥か遠ざかってしまうので、
急ぎ足で、来た道を戻った。
観光客は、僅かな時間の間にも増加の一途を辿っており、リュックは無事だったが、
唐門を通過する人たちが、不審そうに見つめており、危うく遺失物扱いされるところだった。
青春18切符が入ったままだったので、冷や汗物である。
入るとき、唐門への橋の上でアベックが濠の鯉に餌を蒔いていたので、写真が取れなかった。
そこで、出るとき、正面から撮影した。立ち去ろうとすると、老夫婦に写真を取ってくれとお願いされた。
門から少し離れた斜めの位置で、ここで撮ってくれ、との由。
バインダーを覗くと、
なるほど、こちらの方が桧皮葺の屋根が捉えられて、見栄えがよい。旅のガイドブックやホームページでも、
真正面の写真が圧倒的に多く、つい、そのイメージに沿って撮影したが、
この老人の眼力には、教えられる思いがした。
橋を渡って復元町並へ着いたのは、8:35ごろ。入場は9時からだが、係員が出勤し、入り口を開けたので、
連られて入ると、「まだ準備できていないけど、ビデオを見て時間を潰せないことはないわよ」
「荷物を預かってもらえますか」「いいわ」
「先に一乗谷城に行って、帰りに寄ります」
「それは駄目よ。貴方のその格好は、半そでだし、手袋もしていないし、登山の服装じゃないでしょ。
それに熊ベルは?」「熊が出没するんですか、それはヘコみますね。でも、山城は慣れていますから、
この格好でも大丈夫ですよ」「唐門だけ見て、戻ってきて。すると丁度よい時間になるわ」
私はともかく、荷物を預かってもらい、まずは、城下のもう一方の境界である上城戸に向かった。
川原の平地部に、巨大で、形の整った土塁が設けられている。
一乗谷城の登城口の一つを目指し、英林塚方面へ向かう途中、諏訪館跡を通過した。
先ほど思いとどまった庭園跡である。朝倉義景の夫人の館跡と考えられている。一乗谷山の伏流水が、斜面上の穴から噴出し、
ちょっとした滝を作っている。高さ4mを超える滝添え石は日本最大という。
斬新で活きのいい、現代的な雰囲気を感じる。
さて、英林塚への登り口は、熊出没注意の看板と、登山禁止の看板が立っていて、
強行突破は憚られる。また、ここまでの行程を振り返り、一乗谷遺跡のスケールが予想以上に大きく、
既に随分、体力も消耗している。予定時間内に山頂をゆっくり観察する事はできそうにないと思った。
が、正直な所、比高何百mもある登山がしんどかったのであり、
これぞ、脳梗塞の後遺症だったのである。
旅行中は、疲労が蓄積して、しんどくなったりするのは当たり前、としか思わなかったが、
帰宅後に気づいたのは、両脚の踏ん張る力が萎えていたのである。
電車の中で立っていて、揺れて尻餅をついてしまうとか、自転車に乗ってしばらくは、蛇行するとか、
後で異常に気づくのである。放置しておくと再起不能になりそうなので、
毎日、一駅よぶんに歩くなどして、今もリハビリに努めている。
復元町並に戻り、雨の影響で、道のコンディションが、かなり悪そうだから、などと言い訳して、
一乗谷城を諦めた事を告げたが、係員は相変わらず、登山など論外というスタンスである。
係員は、駅前の県立資料館との共通券にするかどうか、尋ねた。今や資料館を訪問する余裕はできた。
単独で210円、共通券は470円だが、資料館自体は400円なので、得といえば得である。
私は、ビデオルームで用意されたプログラムの全てを鑑賞した。
クーラーが利いていたのだ。
町並みは、ふと萩の城下町を思い出させる、漆喰の壁が印象的で、中々絵になっている。
一軒目の武家屋敷は、精巧に復元されている。井戸の先に板蔵や便所も設置されており、
人形が、畳の主室で将棋を指している。台所の土間にも井戸がある。
離れに茶室がある。これらの様子は、中世といえども、天正期の風情である。
但し朝倉氏は、元亀年間に滅びたのであり、ちょうど毛利元就が逝去した頃の屋敷ということになる。
それにしては、少しハイカラすぎないか、という疑念は残る。
道の反対側の屋敷は、重臣が集住していたと思われる大規模武家屋敷群。土塀だけ復元で、
門をくぐると、野っ原に、先の平面復元地区のような発掘跡が広がる。
これはこれで、キョンシー映画の中で、幽霊の呪いが解け正気に返った時の眼前の風景のようで、
心の中を一陣の木枯らしが吹き抜ける独特の空虚感が痛快である。
敷地を区切る土塁状の盛土に、不思議に生ける者の生活臭が漂う。
その後、庶民的というか、商家的な復元建物が所狭しと並んでいる。
武家屋敷に隣接して町屋が密集するのは、発掘した柱穴の配置などからの正確な復元であろうか。
限られた敷地内でエグジビションを自己完結させるための演出では・・・。
町並を通り抜けると土産店である。図録などが沢山置いてあり、興味は尽きないが、何しろ買うと重くなるので、
写真に記録するにとどめる。その代わり、蘭麝酒(らんじゃしゅ)という、健康酒を100ml、525円で購入。
朝倉氏滅亡後まもなく、中脇という地の青木さん宅に、ふと托鉢僧が訪れ、重病人を治癒させ、
その縁で青木家に数ヶ月逗留した後、蘭麝酒の秘法を青木さんに伝授したそうな。
托鉢僧は、朝倉浪人だったのかも。
要は養命酒のようなものだが、福山水野藩の鞆の浦には、保命酒(ほうめいしゅ)と云う似たような酒があり、
漢方薬を色々調合しているのである。
中国には五加皮酒(ううちあぴいちう)というものがあり、
日本では、キリンビールの傘下に入った永昌源の商品が購入しやすい。
復元町並から資料館へは、あっさり民道を帰る事にした。
ということは、城跡だけでなく、南陽寺庭園も見送ったことになる。
結果的に再訪の脈を残した。
民道というのは、川の東側、現代人の生活エリアである。
畑をもつ農家は、家屋も古風で、区割りも、平面復元地区の区割りの名残りを感じる。
中世をしのぶよすがにもなりそうである。
道は民宿「陣屋」の前に通じ、ちょうどチェックアウトする客を見送るため、
年配の女将が道端に出ていたので、その先の道順を尋ねた。
すると背後に、女将の跡取り息子の嫁か、実の娘か知らぬが、
いずれにせよ、若おかみの役目を果たしているに違いない女の人が、
「道路工事中なので気をつけてください」というので、
「あ、引き返さないと不可ませんね」
すると老おかみが苦笑して「リスクは自己責任で、黙って通り抜ければえーのんです」と云った。
とまれ背後から現れた若おかみは、この地には場違いなほど、都会的な垢抜けた感じがあり、
同時にシッカリ者な感じがした。
私は、この女将の存在だけで、次回は陣屋に宿泊してもよいと思う。
車道を横切る所で、警察官が数名、通り過ぎる車を全て停車させていた。
私は余計な事件に巻き込まれたくないので、隠れるように横断歩道を足早に渡った。
振り返ると、警官は、交通安全キャンペーンの襷をかけて、
ドライバーに標語入りの団扇を手渡していたのである。
私は、扇子などを携行していなかったので、引き返して団扇を貰いたかったが、
そこは自重して通り過ぎた。
朝倉氏は、なぜ一乗谷に城下町を設けたのか。
北陸道と美濃へ通じる街道の交差する要路だから、
という考えもあるが、どちらかと云うと、山に囲まれたドン詰まりの地形だと思う。
中世には、このようなドン詰まりの地形こそ、国人層の館が置かれ、農業も盛んだった。
理由は、もちろん、防御に優れた立地だからである。
安芸国では、阿曽沼氏は、瀬野川畔を支配しながらも、支流・畑賀川の上流に家臣団の城下を形成した。
また、毛利氏の一族・志道広良の土居がある広島市安佐北区志路は、
三篠川の支流を遡ったドン詰まりの地と理解すべきだろう。
もう一つ、一乗谷の特徴は、豊富な水量であろうか。一乗谷山の伏流水が、
地下水として容易に利用できる。これは、人口集中の重要な要件であると思う。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は、吹き抜け構造の冷房費のかさむ立派な建物だったが、
展示は一階だけなので、400円にしては物足りない。
地方が、血税を箱物に浪費したと云われて仕方ない面もあろう。
ただし「古文書が語る朝倉氏の歴史」という企画展は、
朝倉氏関連の文献を一堂に集めた、密度の濃い内容であった。
ではあるが、文献は給地の宛がい状がほとんどで、
合戦の感状や国人同士の契状などは皆無に近いため、
毛利氏関係の文献の総量と比べると雲泥の違いがある。
文献の図録は、古文書解読の練習にもなるので、
余程購入しようと思ったが、自宅から書留郵便による送金で購入可能と聞き、自重した。
今は欲しいと思わない。
靴擦れしてきたので、一階に畳を敷いた休憩用の台座があったので、靴を脱いで、しばし休息を取った。
駅へ戻ろうとした時、資料館の前に踏切があり、そこから光照寺跡へ通じている事に気づいたが、
今や電車の時間が迫っていた。
ていうか、折り返しの電車が、早くから停車しているので、さっさと乗った方が涼が取れるのである。
乗客は私一人。観光客は少なくはないが、皆、自動車である。運転手は先ほどと同一人物だが、
今度は車掌が居て、二人は仲よさそうに雑談している。
12:04、電車が一旦、動き出すと、越前東郷から先、地元の利用客は多い。
広島で言うと可部線のイメージに近い。
私は蘭麝酒のキャップを開け、ちびちびと舐めた。保命酒のような甘くて、あっさりした感じでなく、
何か一つの成分が、喉に焼けるような刺激を与える。
濃度があるので、飲むというより、舐めるという感じでよい。
疲れが取れそうでよい。案外ハマる味である。
さて、12:21、福井駅に到着。私は改札を出た。何をするつもりであるか。それは次回のお楽しみ。
(つづく)
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