|
金沢は兼六園だけでなく、その近くの金沢21世紀美術館が家族連れに人気があるそうで、
後学のため訪問したい気持ちもあったが、旅程の都合上、時間が十分に確保できないので、
いっそ今日は福井市街にできるだけ長く留まろうという考えを採用した。
12:21から14:43まで滞在時間は2時間22分だが、
福井城・福井市立郷土歴史博物館・養浩館庭園の3か所は、
十分、徒歩で回遊できる範囲かと思われた。
駅前広場に当たる位置が現在、工事現場として塀に囲われているが、
よく見ると福井城の発掘調査が行われていた。
その東北辺から格子状の柵ごしに、様子をうかがう事ができた。
何やら川床に木の柱が刺さっており、途中で千切れたようになっている。
地下に湿気があったのか、木の柱は極めて良好な保存状態だと思う。
濠に四角く囲まれた本丸跡は、現在、県庁舎と県警本部の建物が聳え立つ。
初代藩主・結城秀康の彫像が建っているが、
一風かわった趣である。近づいてみると、中国の彫刻家の作品である。浙江省青田県の林燿光という人物だ。
世界最適調達により、県財政の節約になっているのだろうか。
結城秀康は、徳川家康の血のつながった息子の一人だが、
その子・松平直政が出雲・松江藩の藩主になった関係で、萩・毛利藩との縁故もある。
松江藩は、物騒な外様・毛利氏の監視役の意味合いで配置されており、
幕府と萩藩の取次ぎ役でもあったため、
毛利輝元の後継・秀就も、正室を松江藩から迎え入れているのである。
県警本部の裏手にある天守台に登ってみる。
直射日光に晒され、とにかく、暑い。
それにしても、台面がグニャグニャに歪んでいる。
そもそも、入り口の石の階段も崩れかけており、
石垣も孕んでいたり、地層の断層のように変形している。
外堀に露出した本丸の石垣自体、孕みが目立つ。
これらは、福井震災(1948/6)の後遺症であるが、
県としては、修復するよりも、地震もまた歴史的事実の一つと捉えているらしい。
これらを通し、県財政に関する哲学が感じ取れ、幕末の有名人物・松平春嶽の遺徳でもあるのだろうか。
にしては、一乗谷の博物館は、過ぎたる施設のようだが。
北辺の濠に橋がかかっており、そこから博物館へ向かう。
庭園との共通券は、企画展も含めると500円だが、まずまずリーズナブルであろう。
17人の歴代・福井藩主の花押を並べたクリアケースが100円だったのを、窓口で購入する。
図録類の陳列を、メモ代わりに撮影する。
1階の常設展を見ようとしたら、先に2階の企画展を見ないと不可ないらしい。
常設が基本で、企画が応用であろうから、順序が逆だと思うのだが。
「越前松平家と大安禅寺」というテーマだが、大安禅寺とは何であるか、知識がなく、ピンと来ない。
2階に行くと、見学者の姿はなく、受付嬢が暇そうにしていたので、
駅前の福井城発掘現場は、城のどの部分に当たるのか質問した。
案の定、質問に即答できる素養の持ち主ではなかったが、
電話で調べてくれる事になった。その間、私は見学を続けた。
大安禅寺は、1658年、4代藩主・光通により、松平家の菩提寺として新設された。
藩主の廟所マニアという者があるなら、必ず訪問すべき寺だったわけである。
江戸時代、幸いにして火事などで宝物を失う事はなかったと見え、
いろいろと高貴な文物が展示されているが、圧巻は、何と言っても、松平光通の坐像であろう。
京都の仏師・康乗の作品で、眉毛の毛の一本一本を描き分けたり、瞳に用いている材質、
白眼部分の充血の様子など、特に顔面の精緻なリアリズムには驚かされる。
受付嬢が、福井駅前の発掘現場は、三の丸の濠跡だと告げに来た。
私は丁重に謝意を表わし、それ以上は追求しないことにした。
1階は、平均的な市立博物館の姿があった。
「ふくいのあゆみ」で歴史を概観し、「古代のふくい」は、市内の古墳と東大寺領の「道守荘」に焦点を当てる。
「城下町と近代都市」では、「城下町と人々のくらし」「近代都市の発展と戦・震災」によって江戸期から戦時中までを駆け足で通り抜ける。
また「幕末維新の人物」という一角も、それなりの比重を得ている。
個人的には、16代藩主・松平春嶽(慶永)の能力や業績に興味を持ったが、
どちらかというと象徴的に祀り上げられている感があり、
維新後に彼が写真の撮影に凝っていた事や、
古き世の その面影を偲ぶには 書(ふみ)より他に しく物ぞなき
と詠んだ事、そして肖像写真ののっぺりした醤油顔などに、癒し系の性質を僅かに伺う事ができる。
むしろ笠原白翁など、余り有名でないが、蘭学を通して種痘を知り、
福井藩が、他藩に先駆け、城下に「除痘館」という種痘所を設営する事に貢献した、鋭利な先見性が注目される。
恐らく春嶽は、自身の才覚よりも、改革の旗手を生み出すコーチング型・プロデュース型のマネジメントを持ち味としたのだろう。
春嶽は、田安家の8男坊の出身とは云え、「家康の実子の家柄」という藩のDNAを相続した人である。
でありながら、水戸藩出身の慶喜とともに、改革のスタンスで幕政をリードした所に、
江戸幕府の幕藩体制という装置の面白さがあると思う。
さて1階には、地球を救う24時間テレビのような黄色いTシャツを着たボランティア・ガイドが徘徊しており、
郷土史研究の老人だけでなく、大学生のようなのもいたので、再び発掘調査の事を質問すると、
濠の底には、逆茂木のような罠も仕掛けられていたという事なので、
現場の木の柱について明確な説明は得られなかったが、或いは逆茂木的なものかも知れない。
気づくと14時になろうとしている。庭園を見学する余裕はあるであろうか。私は大急ぎで博物館を飛び出した。
そのせいで、私は博物館の目玉商品を見逃してしまった。
博物館裏手の福井城舎人門遺構である。門と石垣・土居・塀・道路・水路などが復元整備され、
順路通り進めば、養浩館庭園の西入り口に繋がっていたのである。
慌てた私は、わざわざ博物館の表口から出て、庭園入口へは、道路を直角に歩いて遠回りしてしまった。
更に、旅を終え、博物館のパンフレットを眺めていて、ふと思った事だが、
どうも、松平家資料展示室も、入り口を見落として通り過ぎたようである。
初めての訪問地では、漫然と順路に従うだけでなく、
最初にパンフレットで周辺地図や施設の見取り図、展示紹介などを確認し、方針を決めて動き出すべきだ。
その場でもらうパンフレットは、写真や文字サイズの大小で、重点志向で見学しやすいようにレイアウトされている。
しかし、一旦、歩き始めると、パンフレットを手に持って歩くのは煩雑で、どちらかというと邪魔物扱いになり易く、
現場の順路表示に盲従する結果、大局を見失いがちになるのだ。
庭園は、規模が良くわからないし、何しろ時間がないので、入り口で作戦を練らざるを得ない。
西から入り東から出るのが、駅に向かうにも合理的なようなので、荷物は重いが、ロッカーには預けておれない。
池のほとりを回遊し、松平家の別邸であった数奇屋風書院の中を見学するという単純な行程でよさそうだった。
と、ここで、携帯メールを受信した。手提げ袋の底の方をまさぐって取り出すと、室が私の体調をうかがう内容だった。
それにしても間の悪い時に心配になるようだ。
庭園は、メンテナンスが行き届いており、池の対岸から望む書院は、端正な外観で、
改築したばかりなのか、檜の色も真新しい。
手前の岩島が、新鮮なアクセントを与える。
昭和57年に国名勝に指定されたのを機に、文政6年の「御泉水指図」に基づいて整備が進められたという。
書院に近づくと、池の水を書院の裏側まで引き込む「遣り水」という人工の川に、
どっしりした分厚い石橋がかかっているが、橋の下の水量は少ない。
石橋を渡ると、学生数名の一団がいて、リーダー格の男が、「今はこうして自由に見学できるが、昔は殿様しか敷地に入れなかった」と、
わけ知り顔に陳腐な説明をメンバーにしていた。
展望のよい御月見の間では、カップルが寛いで談話している。
玄関から建物に入ると、台所を経て右手の湯殿に向りかう。サウナ風呂がある。
中央に引き返し、御月見の間に向かって、櫛形の御間、御次の間、御座の間、鎖の間と駆け抜ける。
障子が開け放たれ、どの部屋からも、池の向こうに「清廉」という小亭が見え、
不思議にこれが絵になる。
御月見の間は、相変わらずカップルが独占していたが、敢えて、その部屋に立ち入り、
脇棚の袋戸に施された青貝入の螺旋細工の撮影を敢行した。(写真参照)
会話に聞き耳を立てると、男の方が、人生哲学のような堅い話を早口で語っており、
まだ安定した関係へ持っていく途上にあることを伺わせた。
私は、下関の長府藩の毛利邸など、同類の書院は好きである。異性とスローな時間を過ごすのは、想像しただけで至福の時であろう。
しかし、今の私は先を急がねばならぬ。
駆け足で、書院を通り抜け、下駄箱で靴を履いている時、14時25分に近づこうという時間であったか。
幸い、駅までの道順に迷う要素はなく、小走りに走って、43分の電車に乗る事ができた。
金沢行の電車は、僅かに空いた席はあり、発車したのちに、イラストマップやパンフレットを整理した。
途中、丸岡、大聖寺、加賀温泉など、また何時か立ち寄ってみたい場所をやり過ごし、
16時11分、金沢駅に到着。待ち合わせの待ち時間に駅ホームで駅弁を購入する。
余り種類は置いていないので、「百万石弁当」という900円のにした。
16時32分の電車に乗ると、今度は乗客は少ない。発車して間もなく、私は眠りに落ちるが、電車は何処へ向かい、私は何処で降りようというのか。
それは次回のお楽しみ。
(つづく)
|