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平成十八年八月十四日
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Tour
182006
(9) 北条城

5:48柏崎を発し、5:58北条駅に降りる。「ほうじょう」ではない。「きたじょう」である。 駅周辺の一帯は、現在、柏崎市に編入されているが、 中世は佐橋荘といい、何を隠そう、大江広元の子孫・毛利氏の領地であった。 JR線の北が「北条(きたじょう)」南が「南条(みなみじょう)」である。 駅前に人影はなく、閑散としていたが、私は、使用を差し控えていた毛利帽をやおら取り出す。 この地は、毛利系旅人が、ほっと息のつける場所だ。

佐橋の毛利氏は、北条氏と南条氏に分立し、元就の祖先である時親は、南条氏であった。 その居館跡である佐橋神社には、出張後の週末に途中下車して訪れた。 が、上杉謙信の家臣・北条高広景広(謙信の跡目相続における御館の乱で、 上杉景虎に組して戦死)を輩出した北条氏の居城・北条城は攻略できなかった。 山全体が、深い雪に覆われていたのである。 なので、今日は、そのリベンジでもある。

本丸案内板から切り取った地図 駅から専称寺へ向かう途中の橋から北北東、川の上流を望む が、問題が一つあった。 駅からは、真っ直ぐ北上して専称寺わきの登山口(大手口)から、緩やかな尾根伝いに本丸を目指し、 山頂部の郭群を見学後、下山路を直下して普広寺(搦め手口)に至り、 城主の館跡である諏訪神社を参拝して、駅に戻る、 この周回コースが効率的である。旧・北条町のホームページに「北条いにしえロード」として紹介され、 2時間あればゆっくり楽しめるとの事であった。しかし、私に与えられた時間は、1時間27分。 つまり、7時25分の電車に乗らねばならないのだ。

時刻表を研究し尽くした結果、この1時間27分を使い切る以外に、北条駅を下車しながら、 今日の最終目的地に達する事は不可能だと断定したのである。

専称寺山門手前の登り口 住持の墓 ゆっくり回って2時間なら、慌しく回れば、1時間27分でも大丈夫のはずである。 が、間違っても道を間違える事はできない。 救いは、専称寺登山口までは、以前、歩いた事があり、きょろきょろしたりせず、足早に達する事ができた。 懐かしい登山口。今は、普通の細道だが、前回、ズボズボ膝まで雪に埋もれながら、無理して10mくらいは歩いた。 が、その先は、道と道でない斜面の区別が全くつかなくなり、取り付く島もなかった。 悔しかったが、退散するしかなかった。

毛利時元の墓 墓の側の大樹(合成画像) 今は一目散に、初代・北条城主墓を目指す。急いで入るが、墓地への分かれ道が沢山あり、ひょっとして見逃しては、 と思い歩を進めると、歴代住持の墓が並んでいたりする。

城主の墓は、実は、かなり登ったところにあり、案内板があるので、嫌でも見逃す事はない。 墓と大樹 初代城主とは、毛利氏が南北に分離した時の毛利時元である。墓のそばに大樹が育っており、 墓地周辺が、長年、丁寧に整備されて居た事を伺わせる。

墓地のあとは見張り台跡で、空掘り跡という案内板が出現し、早くも城域に入ったようである。 連珠塞跡木落とし場跡、など、命名の根拠が知りたくなるような看板に気を取られる。 いよいよ山頂部への登り道に入る前、脇にそれたところに「馬つなぎ場跡」という看板が見える。 二の丸 平面に人工的な凸凹が作られ、駅のプラットホームみたいな形状だが、線路部分に馬をとめていた様子が想像される。 しかし、単に地元民の想像に基づく命名のようにも思われる。 というのは、凸凹は斜面に沿って下っており、数条の畝状竪掘のようにも見えるのだ。

土塁跡を経て、二の丸へ登る。長方形の整った郭だ。また下におりて、尾根上の細長い郭を歩く。 長さ160m2段構えの主郭部である。 低い方の削平地は、展望がよい。 主郭部から町を見下ろす(合成画像)
主郭部入口から本丸方向を撮る
本丸跡の石碑
本丸跡案内板の縄張り図を切り取る

奥まったところが比高110m本丸跡で、どっしりした台上に石碑が立つ。 昭和3年3月の建立。北条村教育会、北条村軍人分会、北条村青年会発起人である。 背景はよく解らない。或いは、毛利系ということで、長州閥の後援があったのか。

本丸の右下に郭があり、「大空掘」という看板が立っている。 草木繁茂して人工の工作の跡がよく解らないが、斜面が切岸状で、下から近寄りがたいのは事実だ。

縄張り図では、この先も細長く郭が連なっているが、 遊歩道がなく、進行は困難のようである。 時間の制約もあるので、しばらく石碑周辺で背中の汗を蒸発させた後、下山する事にした。 下山路は、主郭部の段差のところから、直降する細道があり、 登山口の石碑まで、あっと言う間に達した。 但し、その後も、しばらく山中の墓参道で、途中、村上安芸守の墓があった。 この人物を私は認識しないが、 子孫が付近に居住し、その家自身によって守られてきた墓地のように見える。

さて、搦手口の標識の所まで降りた。普広寺の脇である。 前回は、住民がせっせと雪かきしていた道をここまで来たが、 やはり登山道は、進入できる状態でなかった。

搦め手登り口 ちょっとした門前町風の舗道を降り、専称寺へ通じる舗道に出る。 その道を辿ると、山側に複数の寺があり、伝統的な町並みである事が解る。 登城橋から川の上流を撮る 途中、うっかり見落としそうな細い舗道があり、左へ降りると川があり、橋がある。 橋は登城橋という。橋からの川の眺めが良い。

登城橋を駅側から城方面 橋の先、左手に諏訪神社。北条氏の館跡である。その先は駅へ通じるメインの車道である。 まもなく北条駅へ。 時間は15分ほど余裕があった。自販機で飲み物を買った。 一つ問題は、朝、柏崎駅周辺でコンビニがなかったので、朝食を仕入れていない点である。 次の乗り換え駅まで我慢、我慢。

諏訪神社 駅の小さな待合室は、以前の訪問時には、大河ドラマ「毛利元就」に因んだ当地紹介のポスターがあったが、 今、そのポスターはなく、普通の待合室であった。

北条駅 ホームには、他に2名ほど待ち客がある。町が少し動き出したようだ。 7:25、電車が来た。車内は、4人向かい合わせの席は、少しづつ人が座っていたので、 ドア横の2人席に座った。 向かいの2人席の女性は、手鏡で顔を覆って化粧していた。

じっと座っていると、早朝登山の余韻で、妙に爽やかな気分になった。

向かいの女性は、終着駅まで化粧していた。 ほとんど手鏡で顔を覆っていたが、 手筋どおりの序盤、手の動きが激しく乱れる中盤、仕上げの終盤と、 段階が何となく理解できた。

家族の者の化粧でも、ここまで密着して観察した事はない。 何か一編の映画作品を鑑賞したよう。

7:59長岡駅に到着、8:07には電車に乗り換えないと不可ないので、 大急ぎで改札を出、駅のコンビニでおにぎりなどを適当に選び、 行列に並ぶ。時間がない・・・行列でハラハラする。 と、後ろの小母さんが、「大切なものを落としていますよ」 と、青春18切符を拾って手渡してくれた。 「おお!」大問題を起こすところであった。

私は以前、鳴門海峡で青春18切符を紛失し、 数千円もする切符を買って、ようやく帰宅した事がある。 切符を裸で胸ポケットに入れていたため、 知らぬ間に落としたのである。 背景に、雨でリュックがずぶ濡れになり、 体ぢゅうで唯一濡れていない胸ポケットに避難させる必要があった。 この時の反省を踏まえ、 青春18切符は、A5サイズの透明プラスチックケース(ダイソー。2枚で100円)に入れて持ち運んでいた。 朝の改札でスタンプを押してもらった後は、 駅員に見せるだけでよい。 雨に濡れる心配がなく、昔の通行手形のようなサイズだから、 手提げ袋に適当に突っ込んでも、 存在感があり、すぐに見つかる。

この時は、改札で見せたまま、手に持っていたので、 食料といっしょに持つうち、掌中からずり落ちたのだ。 油断大敵。

あと数分というところで改札を通ったので、 駅員に何番線かを尋ねると即答してくれた。 階段を降り、車両に飛び乗り、椅子に座ると間もなく、 先の駅員が車両に入ってきて、 「快速くびき野号の方が先に新潟に着くので、 そちらに乗りなさい」

旅程計画で想定していなかったので、 首をかしげながらも電車を降りた。 8:07、電車は私を置いて発車した。 「くびき野」号は、別のホームから8:18発である。 新潟には9:16に着いた。鈍行は9:31着の予定だったので、 確かに、多少は早く着いた。

小母さんも、駅員も、何と親切な人達だっただろう。 長岡は、幕末、官軍に徹底抗戦した河井継之助が家老を勤めていた地である。 数年前の地震で大きな被害もあった。 苦労が人格を作るのか。

さて、新潟駅の改札を出て、私は何をしたいのか、それは、次回のお楽しみ。

(つづく)

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