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未明の121号線を走ると、中山町という町に至り、最上川に懸かる長崎大橋を渡る。
橋を渡ると、そこは寒河江(さがえ)市である。
いよいよ、この旅は佳境に入る。
ここから先の一帯は、大江広元の所領のうち、長男・親広(ちかひろ)に相続された寒河江荘である。
その後、親広の子孫が、代々、領主・寒河江氏として君臨する。
毛利元就の先祖は、広元の4男・季光(すえみつ)であるから、寒河江氏は、安芸毛利一族の、目上の親戚筋なのである。
最初の訪問地は、寒河江市の南部にある高屋楯(たかやだて)跡である。
寒河江氏の一族、高屋氏の居所である。
楯という館跡に、石碑が立っているらしい。
字(あざ)レベルの住所だけをインプットしたカーナビを頼りに、
現地へ向かう。
一帯は、元は田園地帯であったと思うが、平地に縦横の道が走る住宅地と化しており、
石碑を探し当てる手がかりが今一つ不足していた。
ただ、住宅の一角にお寺があったので、
何かピンとくるものがある。
車を降りて境内を除きみるが、石碑はない。
時刻は、5時ごろであったか。
偶然にも、お寺の脇の細道に、犬を連れて散歩する老人が現れたので、
石碑の事を尋ねると、お寺の裏手にあるという。
裏手は、熊野神社があって、その道向かいに公民館のようなものがあり、
その敷地に石碑はあった。
どこが館跡なのか、正確には解らないが、
熊野神社が由緒ある神社なら、恐らくそこが館跡ではないだろうか。
室町時代、寒河江大江氏の一族高屋元詮は、
山形最上氏の侵略に備えてここに楯を築き、
大江氏防備圏の一翼を担った。
楯の規模は、東西126m、南北82mで、面積約1ヘクタール、堀幅は21m、
古代条里制の地割を利用した最上川段丘上の楯であった。高屋氏は家臣団を上屋敷・下屋敷・新屋敷に置き、
東方に熊野神社・光明寺、北方に極楽寺を祭り、
この楯を高屋開発の拠点とした。
天正12年(1584)6月、九代に渡って栄えた高屋氏は、
最上義光に敗れた寒河江大江氏と運命をともにし、
その楯も消滅した。高屋楯は、高屋氏興亡200年の歴史を語る貴重な遺跡である。
ここに、その由来を刻み後世に伝えようとするものである。
平成15年3月 寒河江市文化財保護委員長 宇井啓 撰文
次に目指すは、本楯(もとだて)跡である。
文治5年、鎌倉幕府政所別当・大江広元が、
功によって源頼朝から寒河江荘が与えられた。
広元は妻の父多田仁綱を目代として遣わし、荘内を治めさせた。
仁綱が入部して居館を構えた場所が、この本楯である。
東西110間、南北100間、濠幅11間、単濠単郭式の館城であった。
昭和58年11月 寒河江市文化財保護委員長 阿部酉喜夫 撰文
仁綱は、寒河江市の西北、西川町吉川の安中坊という寺院の創設者であるが、
実は、この人物は、安中坊に伝えられる系図のほか、存在が確認されない人物であり、
ここに紹介する伝承も、史的根拠は十分とは云えない。
真実は、伝承という霞の向こうに隠れて見えないのであるが、
ともかく先を急ごう。
本楯は、高屋楯の東北である。
やはり、字レベルの入力で、カーナビを頼る。
本楯跡の石碑も、偶然に通った道ぞいにあり、容易に発見できた。
今は石材店となっているこの敷地であろう。
ただその時、
付近に土塁跡が残っているらしい事を忘れており、確認できていない。
さて、お次は、寒河江城跡である。
これは、寒河江市の中心部にある。
大江親広の末裔が、そのまま、戦国大名・寒河江氏となるが、
天正年間に、山形城の最上氏に滅ぼされる。
寒河江城は、寒河江氏末期の居城であり、
これを滅ぼした最上氏が、家臣を配置した城でもある。
江戸時代に入って間もなく、最上氏は、御家騒動から改易となり、
一国一城令の事もあるので、城の建造物は壊され、堀は埋められ、
二の丸跡に代官所を置いたという。
古くは天文年間、新しいもので江戸時代の、城の見取り図が残っているが、
戦国時代のものとしては、少し大仰な印象を受ける。
寒河江城は、鎌倉時代の初頭、寒河江領主第1代大江親広によって計画され、
初めは本丸だけの館城でしたが、度々改築を加え、
遂に室町時代の初期、8代時氏によって、
二の丸・三の丸を持つ寒河江城が完成したものである。
大江氏の領地は、西村上郡の大部分を占め、
石高に換算して8万石と伝えている。
そして戦国時代の天正12年、18代高基の時、山形城主最上義光と戦って破れ、
高基は貫見の御楯山で自刃し、大江氏は滅亡した。
寒河江城が完成したのは、いわゆる戦国の城郭時代より早いので、
まだ天守閣や壮大な石垣の○○(フラッシュが反射して読めない)は無かった。
平成9年4月 寒河江市教育委員会
今は寒河江小学校となっている。
グランドの周りが石塁に固められ、満々と水を湛えた溝になっている。
見るからに、お城の堀跡のようだが、
寒河江城址周辺水路整備工事というものが、近年、実施されており、
どうやら人工的な復元が為されているようだ。
ところで、小学校の周辺は、ちょっとした寺町の観があり、
しかも、それぞれのお寺には、何代目かの寒河江氏の墓があるそうである。
そこで、ふらりと立ち寄りやすい、見た目に立派な寺に立ち寄ったが、
そこは正覚寺といって、後日調べた所では、最上義光が寒河江氏を滅ぼした後、
義光の夫人が居住していたという、最上氏ゆかりの寺だったので、
寒河江氏の墓碑は無かったのである。
とんだ時間の浪費をした。ワゴンRに戻って、ノートPCのキャッシュを頼りに、
「山形観光案内」というホームページを調べ、
澄江寺という寺に、13代・知広とその夫人の墓があるというので、
寒河江氏歴代領主の代表として、ここに白羽の矢を立てた。
澄江寺は、知広が、長門の大寧寺に澄江院を開いたのものが、後に寒河江に移された、という、俄かに信じがたい由来を持ち、
その山門は、寒河江城三の丸の辰巳門が移築されたものと伝えられる。
夫妻の墓は、向かって右の五輪塔が知広で、その没年は明応3年というので、
3年後、ちょうど入れ替わりに、元就が世に生まれたのである。
思えば、関が原直前の戦国大名に滅ぼされた、前時代的な領主の代々の墓を、
市内のいろいろな寺が分担して守っている、というのは、
毛利氏に滅ぼされたり、傘下に入ったりした安芸の守護・国人領主と比較しても、
非常に特筆すべき事のように思える。
滅ぼされた側の寒河江氏の方が、地元では、滅ぼした最上氏より大きな存在なのである。
これは、領主としての歴史の長さが主たる理由であろうが、
もう一つ、
広元という全国的な名族の長男の家柄が、鎌倉時代の初期から、出羽国という僻遠の地に土着していた、
という、寒河江氏発足の事情も見逃してはならない。
その時代、領主自身は、幕府に出仕し、現地には家来を荘官として派遣するのが常である。
荘官は、ビジネスライクに年貢を取り立てるだけなので、
住民が領主を慕うという感情は育たない。
これが、乱世になり、自分の土地は自分で守らなければならなくなった時、
治安の安定要因である強力な戦国領主に対し、愛着を持つようになる。
大江親広は、幕府高官の長男でありながら、京都の上流公家の養子となり、
その経緯上、承久の変で、後鳥羽上皇に味方してしまった。
幕府軍に敗れ、行方をくらました親広は、
辛うじて、親の縁故により、
僻遠の地・寒河江荘に隠棲して、身を保全する事ができたのである。
晩年、幕府に許され、晴れて荘園領主になれた。
初代領主の、その数奇な運命が、現在も代々領主の墓が大切に守られている事の背景にあるのだ。
岡の上の寒河江八幡宮を訪れる。
本殿の下に駐車場がある。
境内からは、米沢の成島八幡宮と異なり、眼下の市街地を展望する事ができ、
明るい色調の神社である。
芭蕉の句碑がある。「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」
古鐘が保存されている。昭和42年まで、200数十年間使用され、戦時中も供出を免れた。
ここを出発したのが、6時30分ごろだったか。
下り道で道を間違えて直進しかけ、少し来た道をバックして右折しようと思った。
その時、もういいだろうというので、ブレーキを軽く踏んだが、
車がズルズル後ずさる、少し強めにブレーキを踏んでも停まらないので、
「すわ、道から外れて、崖下に落ちかけているのか」
とパニック心理に陥り、ブレーキを強く踏み込んだ。
すると、ブレーキと思ったのが、実はアクセルだったので、
車が後ろに爆走した。
それでようやく、勘違いに気づいた。
幸い、真っ直ぐな道をバックしていただけなので、
何事も無くてすんだ。
ワゴンRは、ハンドブレーキが左足を使うフットブレーキになっているので、
右足が少し混乱したようである。
屋上駐車場で、直進とバックを間違え、屋上から転落する事故があったりするが、
ブレーキとアクセルを間違えても、とんでもないことになる。
さて、寒河江城に落ち着く前、領主は、代々楯跡を移転していたようである。
市街を出て、代々領主の楯跡を歴訪する楽しみ方もあったが、
時間の都合上、最上川上流の大江町に直行する事にした。
まずは、寒河江氏の有力支族である左沢(あてらざわ)氏の居城である。
築城は、正平年間(1346-1370)の左沢元時とされる。
そこは、日本一公園という、山上の風変わりな公園であった。
麓は、最上川が大きく蛇行し、対岸が中洲のようになっている。
その景色は美しい。
平成9年、山形県は、最上川の良好な眺めを得られる10地点の一つとして、この眺めを選定している。
最上川の さかまくみづを 今日は見て 心の充つる さ夜ふけにけり 茂吉
左沢城は、公園の敷地だけでなく、北のより高い峰に本丸があるようだが、
それにしては、頂上が郭状に削平された様子に見えないし、
城域全てを探訪する時間がないため、早々に下山する。
山を下り、大江町の幹線を右折すると、巨海院という寺院に至る。
ここの山門は、左沢城の城門を移築したものと言われる。
私は、そこから更に西へ向かう。本郷という字の地から、左に入る道を採り、
月布川を渡ったところに、長泉寺という曹洞宗のお寺がある。
そこは、寒河江氏一族の荻袋(おぎのふくろ)城があった場所とされる。
勝手に本堂に入ってもよいようになっているので、
靴を脱いで、本尊の前に座り、お賽銭を投げた。
パンフレットが置いてあり、
「南無釈迦牟尼仏」と三度、唱えなさいと書いてある。
をを。曹洞宗にも念仏という業があるのか。初耳であった。
見ると「なんで、唱えるの?」という子供向けのパンフもある。
曹洞宗は、禅宗だが、菩提樹の下で座禅し、悟りを開いたのは、
他でもない釈迦、つまりガウタマ・シッダールタである。
よって、禅宗では、お釈迦様を優先的に敬うという訳だ。
「ただ、他宗派に対抗するために、言うんじゃないの?」
パンフでは、高校生のヒロミツ君が、ぼそっとつぶやく。
私は思わず苦笑した。
後日、100円ショップ・ダイソーで「曹洞宗のお経」という勤行用のテキストを購入してみたが、
「南無釈迦牟尼仏」という念仏を三唱するようにはなっていない。
あるいは、曹洞宗の中でも特殊な一派の作法なのか。
禅宗は、念仏を三唱するのか、という疑問は、
実は、詳しい方は、メールで教唆お願いしたい。
というのも、毛利元就11歳の時、安芸吉田を客僧が訪れ、
義母に引率されて法話を聞きに行ったところ、
毎朝、昇る朝日を拝んで、念仏十唱しなさい、と教わる。
それ以後、元就は、生涯、その習慣を守ったという。
どういう文句の念仏かは解らないが、
私は、念仏だから浄土宗か浄土真宗のはずだと考えていた。
しかし、当時の武家の宗派は、圧倒的に禅宗だったはずなので、
それが真宗の僧だったなら、元就は邪宗の教えに影響を受けた事になる。
これは、今でも私の研究課題の一つである。
客僧が、禅門であった可能性もあるのだろうか。
ともかく、早朝の仏堂で、「ナームーシャーカームーニーブツ」三唱は、
清清しかった。
私は何を思ったか、長泉寺から引き返さず、そのまま南西に車を走らせると、
曲がり角に周辺の地図があった。
そこで、漆川古戦場の位置が確認できた。
その合戦は、南北朝時代、南朝方の大江一族軍が、北朝方の斯波氏(最上氏の前身)と激戦を展開した場所で、
大江氏は、この時、一族の有力者が多数、自刃したという。
しかし、住所などが解らなかったので、どうやって見つけようかと思ったのだ。
地図を見ると、本郷東小学校の付近であり、巨海院の先の信号のある交差点で左へ入った後、
長泉寺まで直進すると、気づかず通り過ぎてしまう位置であった。
いざ古戦場に着いてみると、またも公民館らしい施設の近くで、
県営北堰地区ため池等整備事業の竣工記念碑と一緒に「史蹟・漆川古戦場」碑が建っており、便宜的な設定のように見える。
しかも逆光で、がっかりしたが、眼前の田園を展望しながら、しばし、犠牲者の霊の事を思った。
昭和初期、先の長泉寺の境内の発掘で、おびただしい数の人骨が出土したため、
そこが荻袋城のあった場所であって、漆川合戦の時の大江一族の自刃地でもあると考えられるようになった。
そこで長泉寺の敷地内に、昭和11年、供養塔が建立されたのである。
次なる訪問地は、西川町。山を越えて向かう。
広域農道があって、便利そうだが、農水省所轄の道路なので、カーナビに現われない。
今いち近道かどうか解らない順路を採って、西川町吉川の吉川公民館を目指す。
早朝の西川町の田園風景は、光にあふれ、東北や日本海側に対する私の先入観を打ち砕いた。
冬の事はさておき、夏は、大変、自然に恵まれたよい環境である。
公民館があると思われる場所を少し通り過ぎたと思い、
昔風の商店があったので、そこの老婦に道を尋ねた。
公民館は、「青年何とかセンター」と名称を変えて、移転したからというので、
新しい場所の説明が始まったので、
前の公民館の場所が知りたいというと、
そこは、もう公民館の用は果たしていないのに、なぜ行きたいのか、という話になり、
前の公民館に「阿弥陀堂跡」の碑か何か残っているはずだから、
というと、ああ、歴史に興味があって来た人ですか、と納得してもらい、
用を果たした。
この間、老人の濃い東北弁だったと思うが、案外、円滑に意思疎通できた。
阿弥陀堂は、江戸時代の住民の集会所として、重要な機能を果たした様子が伺えた。
夥しい数の供養塔が置いてあり、この地で法事が行われる都度、増えていったと思われる。
阿弥陀堂は、元来、吉川館といって、
承久の変に敗れて逃げ落ちた大江親広が、多田仁綱に匿われて隠棲した場所とされる。
鎌倉幕府に許されるまで、数十年間、親広は、ここにいたのである。
阿弥陀堂は、1225年の大江広元の死去にあたり、親広が、当時、鎌倉幕府の官僚であった長男に命じて、
阿弥陀像を彫らせ、その像に、多田仁綱の念持仏と、広元の遺骨を納入し、
吉川館に阿弥陀堂を建て、そこに安置したのが始まりとされる。
但し、阿弥陀堂は、1241年、吉川館の鬼門(東北)に当たる現在地に移転したので、
親広が実際に居住していたのは、ここではないのである。
これらの事情は、あらかじめ知っていたが、
吉川館の正確な位置を現場で特定するのは困難であろうと諦めていた事もあり、
この阿弥陀堂を親広ゆかりの地として、先人を偲ぶ事にしよう、と割り切っていた。
しかし吉川館は、多田仁綱が別当を務める安中坊の所在地でもあり、
寒河江氏の滅亡まで、その地に存続し、滅亡後も新領主から阿弥陀堂領を与えられ、
江戸時代も約120石の所領を得て、存続したのであった。
今、思えば、大江親広の隠棲地の訪問こそ、今回の旅の私の究極目標だったのであり、
阿弥陀堂跡の西南に江戸時代も存在した安中坊(吉川館)の場所の特定について、
もっと執念ぶかく調査するべきであった。
さて、こうして折り返し地点をターンした私は、次にどこへ向かおうとするのか。
続きは次回のお楽しみ。
(つづく)
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