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平成十八年八月十六日
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Tour
182006
(18) 武士道

21時58分会津若松駅に到着。駅前の風景をざっと見渡したが、ホテルが見えない。 柏崎に続いて、α1ホテルである。 このホテルは、この旅で初めて使用したが、それは東日本のチェーン店だからと思っていた。 しかし、広島県では三次市にあったりするので、 県庁が所在しない地域中核都市を得意としているようだ。 確かに、柏崎も会津若松も、例に漏れない。 また、町が小さい分、駅前にこだわっている。 だから、駅を出たら、ホテルが見えると思っていた。 それゆえ地図はコピーしていないし、パソコンに画像を保存さえしていない。 が、唯一、わたしは行程表をびっしり詰めて、A4一枚に収めた紙だけ印刷しており、 これを4つ折して財布と同じポケットに入れていた。 それが、非常に重宝した。 その紙には、ホテルの電話番号も控えているので、携帯で電話する。

「うちはワシントンホテルの裏にありますので、ワシントンホテルの方向に向かって来て下さい」

「あ、ワシントンホテルは見えますが、ホテルのどちら側を回り込めばいいですか?」

「え、どういう意味でしょうか」

「今、駅前なので、線路沿いに歩けばよいか、ホテルの反対側、つまり表通りまで出ないと不可ないのか、 という意味です」

「可笑しな事を仰いますね、ワシントンホテルの裏にあるのだから、 ワシントンホテルの方向に向かえば、着かないはずがないでしょう。 これ以上、何が知りたいのですか」

旅も終盤、夜も遅くなり、私は疲れ果てたのだ。少しでも歩数を節約したいから、 ワシントンホテルを線路側から回りこんでも、道が通じているかどうかを尋ねている。 反対側から回り込むより、かなり近道だから。 それを、ワシントンホテルに向かって歩いたら、ワシントンホテルに入ってしまうではないか。 通り抜けができるのだろうか。 腹は立つが、人の話を聞こうとしない者に何を言っても無駄だし、 要は、どちらからでも行けるのだろう、と解釈し、線路側から回った。

すると、そちら側は、狭い上に、レストランの入口しか無かったので、 結局、大通り側まで遠回りした。 すると、レストランはα1ホテル1階のものだったので、 レストランに入っていけば良かった事がわかったが、 そもそも、そのようなアドバイスを受けるために、わざわざ電話をしたのである。

会津人の地理観は、経路という概念がなく、方向観しかないのか!」

私は、安芸・毛利一族の研究家であって、 長州・毛利藩とは一歩距離を置く者である。 よって「薩賊会奸」などと会津人を憎む気持ちは、もともと存在しない。 が、もしかして、会津人のDNAの方に、中国地方訛りに生理的嫌悪感を生じる傾向でもあるのだろうか。

が、そういう私自身、どこかに長州人のDNAが刷り込まれているのか、 「おのれ、会津人めが」 と、不思議にムラムラした感情が湧いてきた。

フロントは研修生が応対しており、後ろで先輩が監視しており、時々相談に乗っていた。 その先輩の態度が、いかにも横柄で、ああ、こいつか、と納得。 ところで、α1は、どこも、コインランドリーを備えておらず、 クリーニングは、長期滞在者用に朝受け付けて、夜返すシステムである。 ああ、どうしようもないと思ったら、なぜかアイロンの無料貸し出しをしているので、 それを要求した。研修生は真面目に応じたが、後ろで先輩が冷笑しているのが目に入り、 ますます、この野郎、という気持ちになった。

さて、浴槽で洗濯し、アイロンをかけたところで、とても乾燥は覚束ない。 それだけで、睡眠時間がなくなりそうなので、諦めて寝た。 翌朝の経験から言えば、 下着やTシャツ、綿パン、靴下、その全てが濡れたままでも、 行動を開始して1時間もせぬうち、自然に乾くのである。 乾燥機は、無理になくてもよいのである。 ただ、そう云えるのは、アイロンの貢献も多少あったかもしれない。

翌朝の日の出は4時56分だったので、朝5時には、チェックアウトして、 少し街中の散策もしながら、白虎隊の自刃地である飯盛山を目指す予定であった。 8時から白虎隊記念館が開館するので、 それまで3時間を確保しておけば、いい塩梅(あんばい)である。 そう考え、飯盛山の麓に5台ある貸し自転車も予約していた。

しかし、5時ごろロビーに下りると、 自転車3台ほどが、置かれている。 何とホテルが貸し自転車やっているのか、ホームページでは宣伝していなかったが。 これが、借りれれば、最初から機動力が生じ、予定より行動範囲を広げる事ができる。 また、ホテルが駅前なので、荷物もフロントに預け、電車の時間ぎりぎりまで自転車で行動できるではないか。

そこで、フロントの研修生に気負いこんで、「今から申し込んでもいいですか」と聞くと、 例の先輩に相談する。先輩は、特に迷う事もなく「いいですよ」

更に、荷物は預かってもらえるし、求めて得た観光マップは、B4四枚分、つまり、B1サイズの詳細なものであった。

ホテルの向かいの建物 そこまで、この先輩のお陰で、会津人やホテルα1に対し、憎悪の念が鬱積して、 何か些細な刺激でも噴火する可能性があったが、 この件で、その危険が消滅し、感情の制御が難しくなった私の脳内に、 爽快な幸福感が広がった。

大町通りの古い外観 大町通りという昭和ふうの商店街を、微かに登りながら、 会津町方伝承館のある交差点に到着したのが、5時26分。 ここで撮影したJPGファイルのEXIFで、日時が確認できるのである。 そんな事は解っていたが、写真を収納したフォルダをエクスプローラで見る時、写真の編集のため、 「縮小版」でしか見ていなかったので、写真の撮影日時の確認をすればいい事を忘れていたのだ。 実は、9月に入って、ソニーが、携行するだけで経路と日時のログを取ってくれる新製品を出している事を知り、 税・送料込みで約12,500円だったので、さっそく注文した。 今後の紀行文は、かなり正確に経路を復元する事ができると期待したが、在庫切れ再入荷日未定のメールが来たので、 一旦、キャンセルした。マニアックな商品の割には大ヒットしているのか。

西軍墓地の標柱 この交差点から入った所に「西軍墓地」がある。 交差点に石の標柱があるので、迷う事はない。

戊辰戦争で、幕府軍の最大抵抗勢力であった会津藩の犠牲は悲惨を極めたが、 官軍もまた、多くの流血があった。 この墓地は、官軍の犠牲者を弔う施設で、明治2〜3年に若松県が整え、明治15年以降、東明寺という寺が管理し、 昭和32年、山口県など戦没者の出身県が連携して改修工事が実施され、 以後、西軍墳墓遺跡保存会が管理する事となって現在に至る。

はるばる安芸国から訪れた者には、特に親しみを感じる場所であるが、 勿論、駅から最も近いという理由で最初に立ち寄ったのである。 が、ここで写真を撮るに当たり、 カードリーダ付リムーバブルHDDをフロントに預けた荷物の方に入れたままだと言う事が判明した。 僅か128メガのメモリーをカメラに挿しているだけであるから、 これはどうにも、一旦引き返さぬ訳にはいかない。

で、仕切り直して、ホテルの前の大町通りに出たのが、5時36分。西軍墓地に再度到着したのが、5時40分である。 こうして調べてみると、10分強しかロスっていないのだが、心理的には大きな無駄であった。

入り口 墓地は、入り口に閂がかかっており、容易に抜けそうにないので、早朝なので入ってはならぬのか、 と思って、外から遠景を撮影していたところ、折りしも散歩の老婦があり、挨拶すると、 勝手に這入って構わないのよ、と教えられ、錆が引っかかって堅くなった閂を、何とか力づくで抜いた。

墓地 「西軍墓地に興味があるのだったら、郷土史研究会の資料のコピーをあげるわよ。 興味がない人にそうするのは、手間の無駄だけど、興味があるなら、遠慮しなくてもいい」 と云われ、一も二もなく、コピーを申し入れる。では、用意するからと老婦は去り、 薩摩藩 私は、墓地の中を撮影する。薩摩や長州の墓地がある。 間もなく老婦が戻ってきたので、夫婦で営業しているのであろう理髪店まで着いて行く。 それは、先の交差点にあった。

長州藩 資料を見ながら、しばし雑談する中で、 「同じ史跡でも、幕府軍の立場で観光するのと、西軍の立場とでは、見方が違ってくるでしょうね」 と云われるので、 「とんでもない。わざわざ会津まで来て、会津人の立場で観光しなければ、 多くの事を見逃す事になるでしょう」 と云いながら、私は被っていた一文字三星(いちにみつぼし)紋の毛利帽をリュックに納めた。

石碑 昭和63 広沢安平 建之  今、頂いた資料に基づいて、墓地の紹介をすると、会津藩の犠牲者の霊は、阿弥陀寺4,658柱まつられている。 これに対し、会津で祀られている西軍の霊は、170余。うち150が、ここ東明寺西軍墓地にある。 その藩別内訳は、土佐49、薩摩33、長州24、大垣20、肥前11、備州(はて何藩か?)6、岡山3、館林2、福井1、不明1、と言う事である。

長州が意外に少ない。また墓碑銘によると、埋葬されたのは、長州のみ明治3年、他は明治元年の秋から冬である。 墓碑も薩摩に比べ、長州は簡素だ。 幕末、薩摩は一時、会津と会盟して長州を京都から追い落とした。何か関係があるだろうか。

恐らく西軍の総大将であった土佐牧野茂敬は、明治元年8月23日、会津若松城ぜめにて負傷、25日死亡した。 この人の墓が墓地の中央に立つ。

忠郷の墓 恐らく、この人の指揮下で、土佐・薩摩連合が、北中央の出丸に進入する入口に当たる甲賀町口(石垣の門跡あり)を攻め、 多くの死傷者を出した。 長州は、東脇の天寧寺町口(土塁跡あり)を攻め、大垣は、西脇の六日町口大町口を攻めている。

戦死者は、年齢が解る範囲での最年少は、大垣藩・九鬼国之助17歳、 最年長は、薩摩の米良市蔵土佐の二宮梶平と中村茂藤次43歳である。

さて、理髪店の婦人との雑談が長引きそうなのを打ち切り、近くの蒲生忠郷の墓地に至ったのが、5時53分氏郷墓地 その後、中央通という車道のセブンイレブンで朝食を仕込み、中央通りを南下して蒲生氏郷の墓地に至ったのが、6時10分。 ベンチに大学生の教科書が置いたままになっているのを気にしながら、そこで朝食。

五輪塔 蒲生氏郷は、近江国日野城主・蒲生賢秀の子だが、 織田信長に仕えて、その娘・冬姫を妻に迎えたのは、 余ほど才能が見込まれたのだろうか。 後に、伊達政宗芦名氏を滅ぼした事を秀吉に咎められ、 黒川城を撤退した後を受けて赴任した事は、 大河ドラマ「独眼竜政宗」を見たことのある世代ならば、よくご存知であろう。 黒川という地名を若松と改めたのは、この氏郷である。

なお、蒲生忠郷の方は、10歳にして会津60万石・蒲生藩の3代目を継いだ人物で、 母は徳川秀忠であったので、忠郷と名乗っている。疱瘡を患い、25歳で病死した。

氏郷の歌碑 氏郷の墓は、古趣あふれる、また、威風堂々とした、中々立派な五輪塔だが、息子の秀行が建立したものである。 感心していると、司馬遼太郎「街道をゆく」で絶賛した旨、説明板に書かれている。

限りあれば、吹かねど花は散るものを、心みじかき春の山風

この氏郷・辞世の歌も、文学的に高い評価を受けているそうだ。 ただ私的には、山風を短気になるな、というレトリックは、 どうも知恵が立ち過ぎているように思う。

さて、名残惜しいが、ここに長く留まってもおれない。 次なる目的地は、山鹿素行生誕地である。 左折すると鶴ヶ城(会津若松城)の北出丸からの入口がある交差点を、 城とは反対の右折方向の、 しかし、ほとんど交差点近くにあるので、 これは、あっさり到達できると考え、 神明通りを気持ちよく自転車で走っていたが、 いつの間にか交差点を通り過ぎている事に気づいた。 引き返してみると、 市内でも有数のメイン・ストリート同士の交差点でありながら、 交差点の名称表示も、城への方向表示もない、ただ信号だけの交差点であった。

思えば、通りからの入り口に表示があったのは、西軍墓地だけであり、 忠郷の墓地も、氏郷の墓地も、標識がなく、辿り着くのに、少しずつ時間を消耗している。 またも、私の中のDNAが叫ぶのだ。「会津人は、・・・

目的地への経路を解りやすく説明するための脳細胞が無いのか!」

素行の碑 山鹿素行は、山鹿流という兵法の創始者であり、 赤穂・浅野氏に影響を与えた事で有名である。 映画やドラマでも、吉良邸討ち入りの時に、山鹿流陣太鼓を打つのが定番となっている。 生誕地は、方形の空き地の中央に、記念碑だけがポツネンと建っている。 題字は、薩摩の東郷平八郎である。 敷地が面している通りは、武家屋敷街だったそうな。 この地を去ったのは、6時33分ごろである。

天文台跡の石垣 お次は、日新館天文台跡。武家屋敷街を西に少し進んで、南に左折すればよい。 が、またも入口表示板等がなく、不安に陥り、 開けたばかりの商店で、店主と近所の客が話している姿があったので、 所在地を訪ねると、すぐそこだと、私の背後を指差された。 振り返ると、確かに、天文台跡らしき石垣が頭上に迫っていた。

天文台の台上 日新館は、どの藩にもある藩校だが、会津の武士道を育てた震源地でもある。

「ならぬ事はならぬのです。目的地には、方向が解れば経路を知らなくても辿り着く。それ以上は、問答無用」

天文台に登る石段 天文台は、日新館の現存する唯一の遺構である、という理由で、観光スポットになっている。 この地は、6時37分から40分にかけて滞在した。 記録を見る限り、目的地を探しあぐねている割に、思ったほどの時間のロスは生じていない。

さて、ここからは、貸し自転車が、早朝5時から借りれたメリットを追及するため、 思い切って、B1サイズの地図の西南の端まで遠征する。 まずは、蒲生秀行廟だが、これが思いの外、遠かった。 観光マップは、一見、精密だが、縮尺が均等でなく、中央の観光スポット密集地を大きく描いていたのだ。 思えば当然でもあるが、それにしても、数学の対数グラフのようなもので、 地図上の同じ1pを進む毎に、実際の距離は倍々になっていくという調子である。 内心、後悔しつつ、西南行の最終目的地は、自分的に、それなりの意味があったので、 観念して突っ走る事にする。

秀行廟 覆屋とそれをカバーする屋根 で、廟に到着したのは、6時56分。やはり、移動そのものが最も時間を食う。 廟で祀られている秀行は、氏郷を祀る五輪塔を建立した氏郷の息子である。 覆屋の中の五輪塔 豊臣政権下での2代目会津領主であるが、 その後、転封となり、関が原の敗戦で、上杉氏が米沢に退いた事に伴い、会津藩主に返り咲いたのであり、 徳川政権下では、初代藩主であるため、かく立派な廟が設けられているのだ。 2.7m石造五輪塔を、木造覆屋でおおっている。

ここは長居せず、私は、先を急ぐ。目指すは、いずこ。 会津若松の朝は、まだ、朝の7時になろうとする時刻だが、続きは次回まで、お待ちあれ。

(つづく)

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