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平成十八年八月十六日
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Tour
182006
(19) 殉節

秀行廟から更に西へ急

ぎたいところだが、線路を越えるため、道が長い登り勾配に這入り、自転車の速度がグッと落ちる。 橋の下でJR只見線会津鉄道が分岐している。 橋の上は高度がある分、中々展望がよい。遠くの西山が朝日に照り輝く。 橋の上から会津盆地 夏なのに空気が澄んでいる。 瀬戸内海では、海の水蒸気が立つので、夏はどこか風景に濁った印象があるが、 内陸の盆地という地形からか、東北の気候の関係か、 秋晴れのような透明感がある。

米沢の夕方の山並みも同様に美しかった。ただ、 会津若松の盆地は、米沢より遥かに広大で、山地までの距離が遠い。 これは、自転車といえども中々走り尽くせるものではない。

ともかく桜町飯寺バス停がある交差点を左折し、本光寺の山門の前を、しばらく自転車で行ったり戻ったりウロウロする。 山門の向かい側に道があって、史跡案内の標識が立っている状態をイメージしたが、それらしい道がない。 やむなく、住宅地への入り口を進むと、団地の一角に墓地があったので、そこかと思ったが、現代の普通の墓地である。 この時、およそ7時10分。とある家の旦那が、玄関から出て来て、ガレージで何か始めたのを遠くから見かけ、 自転車で駆け付け、こう聞いた。

「この辺に、長岡藩士殉節の碑というものがないでしょうか」

旦那は、ああ、とばかりに、杉の木の陰にある事を教えてくれた。大変ていねいで親切な方だったが、 民主党渡部恒三そっくりの訛りが、中々聞き取れず、杉の木と解ると、それが何処にあるかの説明が、 更に難解である。旦那は、ついに私の肩に手をかけ、体の方向を動かし、真っ直ぐ前を指差してくれたので、 ついに、杉の木の有りかが解った。 団地墓地のいちばん奥まった所であった。

今おもえば、旦那は、経路の説明を予想した私に、方向についての説明を繰り返し、 これ以上繰り返しても通じないと見て、私の体をそちらに向けるという強硬手段に出たのかも知れない。 このケースでは、経路の面倒な説明は不要で、杉の木の方向が明確になったところで一件落着である。

殉節の碑 越後・長岡藩河井継ノ助らは、官軍との激戦の末、会津若松に逃亡したのである。 長岡と会津若松は、現在もJR只見線でつながっており、 激しい武力抵抗を実行した両藩が隣近所という事は、新鮮な発見であった。

ともかく、ホテルで詳細マップを入手するや、 咄嗟にココまで来てみようと思った背景にあるのは、 福原夏姫の夏休みの自由研究であった。 長岡藩会津藩は、ともに地域の有力藩だったにも関わらず、 県庁所在地になれず、県名に名を残す事もできなかった。

官軍に味方した地域は、薩長土肥の例からも解るが、藩主の城下町が、そのまま県庁所在地になり、県名にもなっている。 (鹿児島・山口・高知・佐賀)

これに対し、徳川家の一門が藩主だったりすると、官軍と戦う実力はないが、さりとて討幕軍に味方はできない、 そこで、城下を包囲されたところで降伏するという選択をするのが常である。 こうしたケースでは、藩主の城下町が県庁所在地になるものの、 県名は、古事記風土記に典拠を求めるなど、地元民の馴染みのない、事実上、改名を余儀なくされている。 (松江→島根、高松→香川、松山→愛媛など)

最も悲惨なのは、武力で楯ついた地域であり、その場合、県庁所在地は、当時の中心地を避け、事実上の遷都が強行されるのである。 その代表例として私がマークしたのが、新潟県福島県であり、 この殉節の碑を写真に撮っておけば、参考写真として、一枚で用が足りると思いついたのである。

山岡帯刀ほか43名の長岡藩士は、80里越と呼ばれる難所を突破して、会津城下に到着、 会津藩士約400名に合力して西軍と戦い、一時は敵を撃退するほどの奮戦を示したが、 濃霧の中、飯寺河原に孤立し、いつしか敵に重囲され、全滅の憂き目に遭った。

飯寺村民は、この地に供養の碑を立て法要を営んだ。後に昭和31年、殉節の碑が建立されたのである。 なお、自由課題の顛末の方は、 私がササッと書いた原稿は、学校で歴史を勉強していない学年にしては難しすぎる、 というので、 福原かミさまによって、全面的に書き換えられるとともに、 中四国以外の県についての文章が全面的に削除された事から、 撮影した写真が用いられる事もなかった。

さて、意地でココまで来たものの、戻るのが大仕事である。 とりあえず、来た道の続きが本光寺方向に延びているので、そちらへ出てみる。 何と山門のすぐ近くではないか。 しかし、寺の前の通りから左折するには、余りに見すぼらしい細道である。 その先の杉の木はよく見えるが、やはり、案内表示は欲しいところである。 こうなると、会津人の道先案内ぎらいは、容易ならざる根強い性向として認知する必要があろう。

ともかく私は、高田橋通という、歴史情緒とは無縁の、普通の大通を東進し、 次ぎの目的地まで、30分以上も走ってしまう事になる。 果たして私は、メインの観光を無事、仕遂げる事ができるのか。 本日は、これまで!

(つづく)

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