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ホテルで入手したB1サイズの観光マップは、縮尺がいい加減だと言ったが、今よく見ると、あちこちに赤いピンが立っていて、
地点間の距離が表示されていた。確かに縮尺率は、かなりばらついている。空間は歪んでいるのだ。
長岡藩士殉節碑から、線路を跨ぐため道路が橋(高田橋?)を登りきった所、そこまでは1q強だが、
写真の撮影時刻により、
8分が経過している事が解る。そこから東へ直進し、丘陵の麓に達して左折するまでが、1.8km。
おそらく約15分かかっただろう。
小田橋通りというその道を約600m進むと建福寺前のバス停があり、右の道を登ると山門がある。
地図では、この辺り、お寺が沢山集まっており、
時間の都合上、一々は訪れる事はできないが、山門に近づいた方が近道になるかと思った。
既に善龍寺を通り過ぎているが、
建福寺の先に恵倫寺、宝積寺と続いている。多少おもむきのある裏道だったが、
道は下り、先の小田橋通りの手前まで来た。
少し遠回りしたわけで、建福寺山門前まで登り損であった。
宝積寺辺りから上り坂になり、目的地はこの辺りか、と左折すると古い住宅地である。私は、庭先にいた主婦に、
「葦名家の廟所は、どちらになりますか」と聞くと、
何と「そんなの知りません・・・忠霊堂なら、あれですけど」
地図には小田山忠霊堂とあり、広い公園の中央に堂が建っている。
不思議な趣があるが、時間的にも興味的にもオミットする。
後で調べると、陸軍連隊が管理していた墓地で、
忠霊堂内には、日清から第二次大戦まで、1万数千名の戦没者の分骨・遺髪などが安置されているそうな。
桜の名所でもあり、地元ではメジャーなスポットなのだ。
「もう少し登った所を左折すべきだったかも」
「ああ!きっとそうですよ。何かそんなのがあったような」
思い当たる節があるようだ。
会津の戦国大名も、伊達氏には滅ぼされるし、
廟所の麓に移り住んで相当年数が経っているはずの住民にも無視されるとは、寂しい限りである。
こうして到着したのは、7時52分。殉節の碑から通算して、移動だけで38分を消費してしまった。
会津最初の領主である葦名家は、初代佐原義連(後に葦名氏を称した)から天正17年(1589)に20代義広が磐梯山麓、
磨上原において伊達政宗に敗れて会津を去るまで、400年の永きに渡った。
この墳墓は16代盛氏を中心として、左が17代盛興、右が18代盛隆の墓である。
特に、16代盛氏は徳望があったばかりでなく、武略にすぐれ、長沼・二本松・須賀川・郡山などを従わせ、
越後の上杉氏・甲斐の武田氏・相模の北条氏・古河の足利氏と交わり、
威を四方に張ったので、葦名家中興の祖と云われた。
昭和56年11月 会津若松市教育委員会
気づくと、犬を連れた近所の老人が私を観察していた。
挨拶すると、近くに山城跡がある事をしきりに宣伝する。
急いでいるので遠いところには行けない、自転車だし、と云うと、すぐ近くだし、自転車でも行ける、
という事なので、では行ってみる、と答えた。
そこは、小田山公園と呼ばれる、
鶴ヶ城の南東2kmほどの標高372mの山であった。
戊辰の役では、官軍が大砲を据え、鶴ヶ城に砲撃を行ったという。
先の老人のような町内会や郷土史研究会の人たちも、その整備に多大な労力を提供したと思われ、
確かに道は車も通行できそうであったが、舗装されていないし、傾斜もある、距離もありそうなので、
少し登ったところの案内板まで行って、引き返す事にした。
ところで案内板を読んで愕然とした事には、先ほど山門だけ見て中に入らなかった建福寺に、
河井継之助の遺骨が納められているという。埋骨遺跡と呼ばれる墓石があるそうである。
以前、真冬の長岡の郷土資料館に雪を踏み分けて訪問した事があり、
何となく親しみを感じていたので、彼が重傷を負って会津へ亡命した事は知っていた。
それゆえ偶然知った長岡藩士の殉節碑にも、長駆、街の果てまで出向いたわけである。
が、継之助の墓は、街の反対側にあったわけで、しかも、それと知らず、目の前を通り過ぎてしまった。
今さら引き返すのは何とも時間の無駄である。
その時は地団駄を踏んで悔しがったが、もし敢えて引き返していたら、もっと悔しい思いをしたであろう。
というのも、建福寺に埋葬したのは偽の骨壷だったのである。
継之助は、会津若松に達する前、南会津郡只見町塩沢で死去しており、藩士たちが遺骨を会津若松まで持って逃げたのである。
が、聞くところによると、松蔵という継之助の従者が、骨壷を二つ用意し、官軍の追及を恐れて、建福寺には偽物を埋葬し、
本物は、山中の松の木の陰に隠したというのである。後日、松蔵は本物の骨壷を掘り出し、長岡へ持ち帰ったそうな。
この話自体、どこまでが真実か不明だが、いずれにせよ、この一帯に遺骨はなかったのである。
さて次なる目的地、会津藩主・松平家墓所に向かうには、地図では点線の近道がある。それを使うことにしたが、
下山途中から、細い山道になり、ホテルの貸し自転車をガタゴト酷使しながら、緩い下り坂にも関わらず、
必死でペダルを踏む必要があった。下り終わった辺りで、何の変哲もない田園風景が広がったが、
これが何とも爽やかな景色であった。
この時、8時12分。小田山周辺での時間の消耗が激しい。ようやく湯川を渡る橋があったが、
渡った先も一面、畑である。
すると、ビニールハウスの陰から農夫が現われ、何だこの闖入者は、とビビっている様子。
ここは松平家墓所の近くか、と尋ねると、観光客と解って、とても丁寧に応対してくれた。
実のところ、観光施設の立ち並ぶ「いにしえ夢街道」は、すぐ先にあった。
墓所へは案内板に導かれ、8時20分、参道入り口で自転車を置いた。山城の頂上を目指すかのように参道を登る。
途中、西のお庭、中のお庭という傍郭をやり過ごし、8時30分に到達したのは、保科松平家2代・政経の墓所である。
一人あたり面積では、今まで私が見たことのある、どの戦国大名や江戸期藩主の墓所よりも広大な間取りであった。
実は、この2代目だけが、仏教形式の墓所で、他はみな神道形式だそうな。その事情は知らない。
そこから更に道を登り、8時40分、3代・5代・6代・7代の墓碑が立ち並ぶところへ来た。
ここは、斜面が3段に削平され、一番下の段から見上げて墓参する。中の段には、左右に石灯篭があり、
上の段に墓碑がある。で、遺骨は、墓碑より更に奥まったところに納められ、円柱状の石蓋が置かれている。
下の段で墓参する限り、見えるのは墓碑までである。
神道形式とは、なるほど御尤もで、この立体的な構造は、前方後円墳の趣を彷彿とさせる。
さて、7代の墓所から少し左に外れたところに、9代・松平容保(かたもり)の墓がある。
明治になってからのものだし、江戸時代の藩主のものより一回り小さく、地面の傾斜もほとんどないが、
一応、左右の石灯篭、墓碑、納骨施設という構造を踏んでおり、賊軍の大将にしては丁重に扱われている。
容保の墓地の傍らには、子孫代々の墓もあり、12代・保男(もりお)の六女・松平敬子さんが、
平成8年に享年72歳で他界されたところまで、
石標に刻まれているので、或いは現在もなお、代々の墓所として継続しているのかもしれない。
容保の墓の手前には、「正三位松平公墓碑銘」として、東京帝大教授・星野氏による漢文を四面に刻む角柱があった。
会津藩の悲劇を熱っぽく綴っているようで、
ところどころに「毛利氏」が登場する。
少し離れた場所に4代と8代の墓所があるが、もう十分満腹、とばかり、下山道を選ぶ事にした。
と、ここで時計が9時を指そうとしている事に気づき、私は慌てて飯盛山観光案内所に電話し、
事前に予約していた貸し自転車をキャンセルする。
営業開始直前で、既に私のためにスタンバイしていたと思われ、
落胆振りが伝わってきた。
下山していると、ふうふう云いながら登ってくる老夫婦と行き違う。
どれだけ登ればいいんでしょうか。確かに私も登る時そう思った。
(つづく)
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