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平成十八年八月十六日
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Tour
182006
(21) 武家屋敷

当初、9時飯盛山で自転車を借りる事にしていたので、 会津若松でのココまでの行程は、 云ってみれば、時間の丸儲けである。

とは云え、若松城白虎隊関係のメインの観光が終わっていない。 松平家墓所から程ちかくに会津武家屋敷という観光スポットがあるが、 入場料が850円と、やたら高く、何か程度の低いアトラクション施設のように思われたので、 ここは思い切ってオミットする事に。

一乗谷の復元武家屋敷も見たし、850円の元を取ろうと思ったら、どうしても滞在時間が長くなるだろう、 時間の無駄、時間の無駄、・・・と呟きながら自転車を漕いでいた私は、 会津武家屋敷のチケット売場近くのドリンク自販機に吸い寄せられていき、 気づくと、なぜか入場券を買い求める行列に並んでいた。 学生グループや家族連れという、この旅では珍しい人種が、わざわざ並んでまで這入りたがっている流れに、 うっかり溶け込んでしまった。 チケット売場の奥が事務所になっており、荷物を預かってもらう。

西郷四郎の山嵐 敷地に入り、冠木門をくぐると、順路は左となっており、家老屋敷に向かう。階段を登って塀に沿って右に進むと表門があり、 その先に姿三四郎のモデルとされる西郷四郎が一本背負いを決めている像がある。これを撮影したのが9時23分であった。 慶応2年(1866)、会津城下で生まれた四郎は、後に新潟県に引越し、17歳にして上京し講道館に入門、19歳の時、 元・松平家筆頭家老であった保科頼母(ほしなたのも)の養子となり、21歳の時には、5段に昇進して講道館四天王の一人と云われ、 山嵐という得意技でブイブイ鳴らした。23歳にして、頼母が筆頭家老時代の家名である西郷家を再興し西郷四郎と名乗る。 が、25歳にして講道館を去り、その後は、紆余曲折を経て長崎の新聞社の編集長として活躍、57歳の時、療養地である尾道で病没したそうな。

で、なぜその像があるかというと、ここに江戸時代の西郷家の屋敷を復元したからである。 どれほど正確な復元かは定かでないが、欅・檜・杉材を使用し、敷地2,400坪、建屋280坪、部屋数38、畳の数328枚とは、中々壮観ではないか。

表門正面が表玄関で、その右手の門をくぐると御成りの間である。鯉が泳ぐ池のある庭に面しているのが次の間、 その奥が書院壱の間である。書院壱の間だけ、畳に高麗縁(ふち)が用いられ、ここに容保小姓が正座している。 次の間には、頼母が拝礼している。大河ドラマ「新選組」で、容保と家臣の広沢富次郎が、京都守護職を返上すべきかどうかで、 争論になったシーンは、ここで撮影された。

次の間 書院壱の間
雪隠の内部 レール上の箱車

御なりの間の裏手は殿様専用の雪隠(せっちん)で、砂を敷いた箱車が木製のレールの上に置かれ、使用の都度、処理していた。

槍の間 奥二の間・次の間

屋敷の裏側も、外から見物できる。表玄関の裏手に槍の間がある。それから客待ちの間表居間などを経て、奥の間である。 奥ニの間次の間が、つながって広々している。 婦人たちの寝室であるが、官軍が会津城総攻撃を開始した時、 全員登城の命が下ったが、婦女子21名は足手まといになるまいと、この部屋で自刃したそうな。

直後に土佐藩士が乱入すると、まだ命絶えていないが目が見えなくなっている少女が、お味方ですか、と問うので、 そうだ、と答えると、では介錯をお願いします、と言われ、涙ながらに介錯したそうな。 ただ、よく会津訛りが真似できた、いや、高知訛りを出さなかったものだ、と感心する。 頼母は、籠城後に降伏し、命を永らえている。どこか巧くできすぎた話のような気もするが、 婦女子が犠牲になった事は間違いない。白虎隊と併せて考えると、弱者ばかりが酷い目に遭う運命(さだめ)かと溜息が出る。

奥一の間 風呂場
更に奥一の間。家老の寝室である。奥を回りこんで、浴室がある。

部屋が多すぎてキリがないので、撮影を手控える。というのは、またもカードリーダ付HDDを預けた荷物に入れたままなのだ。 幸い、入場する直前にコンパクトフラッシュを空にしたばかりだ。 今さら引き返すより、家老屋敷は、128メガバイトで何とかしよう。 ポータブルHDDは、ほとんどポケットに入れてもいいくらいのサイズだが、うっかり落としては不可ないから、リュックに入れてしまう。 もう一息、軽量コンパクトにして、「カードリーダ付HDD内蔵iPod」などができたら便利なのだが。 そう、洒落たケースに入れて首からぶら下げる。 会津の図書

敷地内に、会津歴史資料館がある。2階に展示があり、階段の壁にも、色々古文書の複製が貼ってある。 私は、例によって一階の図書を撮影する。

奥玄関 続いて藩米精米所の建屋。屋内に直径4mもの水車が回っている。精米所を出て、9時46分、屋敷の奥玄関を撮影したところで、 カードが一杯になった。家老屋敷の主だったところは見れたと思い、 台所井戸は見ないで、裏門をくぐり事務所へ戻った。そのお陰で、西郷家一族の自刃の場が再現され、涙を誘うという、 第2資料館を見逃してしまった。

中畑陣屋の玄関 リュック自体を取り返し、データの転送を済ませ、旧・中畑陣屋に向かう。1837年に建てられた代官所のオリジナルで、 県重文である。先の復元・奥玄関と比べ、くすんだ感じである。9時53分復元茶室 続いて、茶室・麟閣の復元。蒲生氏郷の庇護を受けた、千利休の子・少庵の設計で、若松城本丸内にあったが、 戊辰の戦禍の中で奇跡的に残存し、お城取り壊しの際、移築保存されたので、 こちらは、それを模倣した客寄せのための建築である。この茶室が、9時57分

さて、その後、「会津くらしの歴史館」など、中途半端な施設が色々あり、 お土産店も含め、ささっと駆け抜ける。 白虎隊のTシャツに目を向けたが、2,500円あたりの高額だった。 敷地を出たのが、10時6分である。 やはり850円の元を取ろうという意識が働いて長居したわりに、 カード容量が気になって、メインの西郷屋敷に集中しきれなかった。

メインの若松城と飯盛山、時間的に大丈夫? ハラハラしつつも、国史跡・天寧寺土塁跡も見逃せない。 それこそ必死で、自転車を疾駆し、10時16分に到着。 立入禁止のような気もしながら、土塁の上に上がってみる。 いかにも、石垣を貼り巡らし、櫓を建て、塀で覆う以前の、防塁の原型である。 1592年蒲生氏郷が、若松城の改築に際して築造したもので、現存するのは、ここだけである。 天寧寺土塁跡

さて、国名勝・御薬園は、土塁の程近くではあるが、 さすがに時間を考えてカットする事にし、いよいよ鶴が城(若松城)へ。 と、ここで、素直に車道から北出丸に入ればよいものを、 これが近道と思って、廊下橋を目指し、会津風雅堂の前を通って、陸上競技場の周りを進むうち、 うっかり、鶴が城南口バス停まで来てしまった。全くの遠回りである。

この先どうなる事やら、続きは次回のお楽しみ。

(つづく)

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