|
鶴ヶ城(若松城)の本丸への廊下橋に到着したのは、10時34分であった。廊下橋は、三の丸、二の丸、
と東から仕寄せた時の入り口だが、土橋を数m掘り下げて橋を架け、敵兵が押し寄せたら切って落とせるようになっていた。
廊下橋門を渡って蒲生時代の桝形石垣に這入り、石垣に沿って本丸埋門(うずみもん)に至る。蒲生時代の表門で、
加藤明成の改築後は裏門となったが、現在の観光客には再び表門として機能している。
本丸は、天守閣の入場券売り場に長い行列ができているので、御三階跡という櫓台の方へ向かい、
天守の写真を撮った。ここにあった三階建ての楼閣は、七日町の阿弥陀寺に移築され、今や、この城の唯一の現存建物である。
天守からは南走長屋が延びており、パノラマ写真にすると中々優雅な絵になるが、
私の適当撮影法では、合成すると歪んでしまい失敗作になり、公表できない。
天守閣への入り口は、頭上に石の橋が架かっている。意味はよく解らない。這入ると塩蔵が再現されており、
薄暗いが、石垣が露出した狭い区画で、どこかヒンヤリしている。物資の冷蔵に好都合なのであろう。
展示は撮影できないが、内容は充実している。塩蔵から階段を登った一層目は、紹介映像と模型で迎えられる。
三層目は、白虎隊の一人一人の紹介がされている。うむ、これで白虎隊記念館は省略しよう。
格子から外を見ると、加藤氏改築後の表門である鉄門(くろがねもん)が見える。
復元して間もないと見え、真新しい。
五層目の展望台からの眺めは抜群である。但しパンフレットが簡素なため、撮影した写真がどの方角のものか、
今となっては、検証困難となったため、一方面のみ掲載する。
順路に従って降りると、南走長屋の中も展示室が並んでいる。長屋が鉄門のところで折れ曲がっているので、
天守を見上げる写真が撮れる。
干飯櫓から屋外へ出る。堀端の石垣上を歩くと荒城の月碑に至るが、茶室・麟閣への共通券(500円)を買った私は、
遠回りになるので、途中で本丸に降り、こちら側から長屋と天守のパノラマ写真を撮ろうとしたが、
これがまた失敗作である。が、長屋が少し折れ曲がっている事を許してもらえれば、鑑賞に堪える構図ではある。
庭園化された本丸御殿跡の脇を通り、茶室へ。入り口で冷たい抹茶500円(菓子付)の券を購入。この時、11時50分。
朝5時から活動しているので、今日もこの時間、疲れてだるくなり、すっきりしたい気持ちになった。
千利休が秀吉に殺されたのを、いたく惜しんだ蒲生氏郷が、利休の次男・少庵を会津に匿い、
彼のために茶室を造ったという。室内の赤松の床柱は、少庵自ら削ったものと言う。
どういう関係か、麟閣の手前に、寄付と呼ばれる小さい建物がある。茶会に先立って、客が連れ客と待ち合わせたり、
身支度を整えて、席入りの準備をするための施設で、森川さんという人が寄付して移築復元されたそうな。
麟閣の躙口(にじりぐち)。その先の庭園を回って茶室。小母さん達の狭間に隙を見つけ、座敷椅子に一人座って、
パンフレットを確認したり、小遣い帳を付けたりしていたら、いつの間にか、順番を飛ばされている事に気づき、
またぞろ「会津人め」と思い、係員に毒づく。時間を惜しんでいるのだ。
しかし、すぐに持ってきたので、気を取り直し、風雅を楽しもうと思う。ただ何ぶん疲れ果て、喉も渇いていたので、
一口で飲み干してしまった。
時に正午。写真の撮影時間を調べると、椅子に座り、順番を抜かされ、一気に飲み干し、席を立つまで、5分とかかっていない。
本丸埋門に置いていた自転車に乗り、人ごみの中、武者走り、太鼓門、椿坂を、それと知らず通過し、北出丸へ。
戊辰戦争の折は、この北出丸を堅牢に守っていたようだ。東西の枡形石垣は、がっしりしている。
左が西の石垣、右が東の石垣だ。
東の枡形から外に出ると、山鹿素行の生誕地がある東西の通りに出、私は、鶴ヶ城北口バス停のある交差点を北上する。
北出丸大通りという。これをしばらく北上していると、甲賀町口門跡に至る。国史跡である。12時19分。
甲賀町は、蒲生氏郷が近江国日野の住人を住まわせ、その後、加藤氏が日野が所属する甲賀郡の名を取って甲賀町と改めた。
武家屋敷と町人街を分かつ16の郭門のうち、現存する唯一の跡だそうな。
戊辰戦争の折、薩摩と土佐の兵士が会津藩士と激戦を展開した場所で、西軍墓地に葬られている多くは、ここで戦死したわけだ。
さあ、いよいよ時間も押し迫ってきた。先を急げ。甲賀町通りと名を変えただけの道を、そのまま直進し、
若松一高を過ぎて右折。滝沢東交差点で、白虎通りという大きな車道に出る。
ここから白虎隊の自刃地・飯盛山の登り口まで、僅かに500mで、
石段を登る人影が見えるほどである。
が。が、が。
緩い上り坂が延々と続くので、中々まっすぐ進めない。蛇行しながら、ひいひいと自転車を漕ぎ続ける。
この時は疲労の蓄積が原因としか思わなかったが、実は、これぞ脳梗塞の後遺症だったのだ。
これを執筆している現在、発症後2か月を経過し、さすがに真っ直ぐ歩いたり、
駅の階段を2段飛ばしで翔(かけ)って上り下りさえ出来るようになったが、
まだ万全とは云えない。
盆休明け直後は、通勤電車の揺れで尻餅をついたり、小母さんの足を踏んで補償問題になりかけたり、
中々大変だったが、今では吊革を持たなくても、ふらつかないで済むようになった。
聞くところによると、損傷していない脳細胞が、失われたプログラムを推定復元するそうである。
歴史小説を書いたり、史料考証したりする趣味を持っていると、
脳内の推定復元作業も、常人より速く進むそうだ。(ウソです)
観光用のお食事所が「荷物預かり無料」と看板にあり、立ち寄ると、
応接室のようなところに投げて置け、との由。
さて12時43分、動く歩道があり、吸い寄せられるように近づくが、有料なので、敢えて急な石段を登る事にする。
不思議に、これは自転車より楽だった。
階段は5分とかけず登り終わる。
ローマ市寄贈の碑とか、
戦前のドイツ大使館外交官の寄贈した碑があり、
自殺を禁ずるキリスト教とはいえ、
白虎隊の悲劇は、ヨーロッパ人の胸を打つものがあるらしい。
幕末は、まだ切支丹は禁止されていたので、
白虎隊の少年たちが切支丹であったはずはあるまい。
蒲生氏郷が切支丹だった事と関係があるのだろうか・・・。
降伏して生き延びた藩主・松平容保の弔歌は、
幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽ちじとぞ思う
今にして思う、蒲生氏郷の歌才は、やはり相当のものである。
他にも、色々の人か団体が建立した慰霊碑の類が密集している。
崖際に大量の石柱が並び、その根元には飛び飛びだが線香を置く台があり、
石柱の列の前、中央部には、焼香台のようなものがあって、
観光客の多くは、そこで合掌礼拝していたので、
私も、そうした。
この地も曹洞宗に違いあるまい、と思い、
「なーむーしゃーかーむーにーぶつ」と唱えていると、
後ろの女の子の2人連れが「を、を」と、感心した様子で注目していた。
「あれ?」
近くに、別の石柱の列があり、数えれば19本、その一つ一つに線香が捧げられている。
中央には、文字通り「南無釈迦牟尼佛」と刻まれた石碑が立っているではないか。
こちらは「自刃 伊藤和助 享年十六」といった風に、はっきり読み取れる文字が一つ一つ刻まれていたので、
「ありゃりゃ、白虎隊の慰霊碑は、こちらであったか」
ええい、とばかり、一つ一つの石柱に「なむしゃかむにぶつ」と唱える事にした。
唱えながら、これは「南無阿弥陀仏」と同様、間抜けした感じがあって、
気合が入らないな、と思い、
途中から「帰命尽十方無碍光如来」という一向宗の十字称名に切り替えた。
その間、女の子の連れは、ずっと見ていたらしく、途中から私は、変人に格下げされたように思う。
さて、自刃地は、そこから少し下ったところ、民間の墓地の狭間にあった。
正確にその場所だったかどうかは、調べていないので解らないが、
眼下に城下が一望でき、鶴ヶ城のあたりも見える。
会津城総攻撃の日、城の周辺で火の手があがり、落城と勘違いして自刃した、
その逸話にしっくり当てはまる場所である事は確かだ。
途中、飯沼貞雄の墓があった。白虎隊の生き残りである。自刃したが息絶えなかったのだ。
彼が語ってくれたお陰で、19人の最後の様子が詳しく解るのである。
もっとも、19人と言う人数も、時代につれ少しづつ増えているようだが。
また「白虎隊武士道に憧れ、この山に眠るドイツ人、ハイゼ父子夫妻の墓」への分岐点がある。
なるほど、ヨーロッパ人は、白虎隊を会津武士道の象徴と捉え、英雄視しているのか。
自刃地には「白虎隊殉難士各霊塔」がある。
もはや、またか、と思うしかなく、それより、ここから鶴ヶ城の天守を探し、その一帯に煙が立ち昇っている様子を想像してみた。
私がそうしているのと時を同じくして、
家族連れの客が、鶴ヶ城はアソコよ、あれが天守閣よ、と確認しあっていたので、
「白壁の天守なのに、ここからは真っ黒に見えますね」
というと、母親だけが反応した。恐らく彼女以外は、歴史的背景が見えていないのだろう。
そういえば、やや漫画的な白虎隊士の彫像も、天守の方角を、手をかざし見ているではないか。
そしてその隣に、なぜか仙台育英学園の創設者・加藤利吉さんの胸像も、その方角を!
明治15年に会津若松で生まれ、
満12歳にして尋常高等小学校を卒業するや、木炭100俵(かなり多い?)を学資として貨車に積み、上京。
欧米人の家庭教師に英語や英文学を教わったそうな。満21歳の時、日露戦争に徴兵され、
22歳の時、奉天で敵弾を受け、頭部・顔面を負傷、内地に返され、仙台の病院で約6か月療養し、
退院するや仙台市内に居を構え自宅に「育英塾」を開き、これが仙台育英学園のもとになったのだとか。
察するに、かなり裕福な家に生まれ、戦争で負傷した事を除けば、マイペースの人生が可能だった、羨むべき人物のようだ。
さて、13時2分。実は、会津若松駅を発つのは14時13分の予定であった。
それまでにホテルに戻り、荷物を詰め替え、お土産を買ったりもしたい。
ここに到達するまでの所要時間を考えると、既にスリリングな時刻ではある。
いざ下山!お食事処に置いた荷物を、自分で勝手に取り、
帰りしなに当然、昼食を注文するだろうという店員の期待を裏切り、
自転車に乗る。
だが、実は白虎通りという大通りは、駅まで一直線の緩い下り坂であって、
ホテルに到着したのは、13時20分ごろではなかったか、と思う。
その時間のホテルは、ちょうどチェックアウトとチェックインの狭間で、
のんびりムードだったので、
一階のトイレでシャツを着替えてもよいか、と尋ね、
あっさり了解を得るや、トイレでは、汗を拭きたくなり、
水道の水でタオルを湿らせ、上半身を拭いた。
更にズボンも穿き替えたくなり、
パンツ一丁で両脚の汗もふき取っていると、掃除婦が這入って来た。
ここまで敢えて話題にする必要はなかったが、
タオルと言うのは、W杯の勝敗を当てるコカコーラの懸賞が当たったもので
(これは優勝経験国の国旗をデザインしたものだが、
ドイツやブラジルのは、コカコーラ社員が縁故で持って行くのか、恐れていた通り、私に届いたのは、ウルグアイであった)、
手拭とバスタオルの中間くらいのサイズである。
これは、真夏の汗を拭きとっても拭きとっても、一日中グショグショにならぬので、
かなり重宝した。
また、今にして思い出したが、ズボンはアイロンで乾ききらないので、
この日に限り、予備の短パンに穿き替えて行動していたのであった。
で、あらかじめ、ホテルのトイレで長ズボンに穿き替える心積もりはあったのである。
まだ少し時間があるのでロビーのソファーで寛(くつろ)ぐ事にする。
汗を拭いただけでも、プールから上がった時のような爽快感がある。
と、そこで、デジカメを紛失している事に気づき、
リュックに詰め込んだ荷物を随分と出し入れして探した。
余ほどフロントに相談しようと思ったが、そこまでのプロセスを思い出して、
穿き替えた短パンのポケットに入れたままになっている事が判明し、
事なきを得た。
そんなこんなで、そこそこ良い時間になる。
考えてもみれば、最後の1.7kmほどが、下り坂で約15分で済んだため、
想定外の時間的余裕ができた。
それがなければ、ホテルのロビーで、かなりパニクっていたかもしれない。
こうして会津若松の観光は終わった。自転車のお陰で、予定より充実したものとなったが、
後日の調査の結果、七日町の阿弥陀寺に行かなかった事を、大きなミスとせざるを得ない。
そこは、西軍の何十倍の犠牲者を慰霊する東軍墓地があり、御三階の移築建物があり、
更に、新撰組・斎藤一(オダギリ・ジョー)の墓もあったのだ。
が、このようにして、リベンジ旅行の種が蒔かれるのが常でもある。
駅では、会津健康奨励弁当(950円)を購入。時間は早いが、夕食に旅情を残そうとした。
19時までに食べないと危ないとの由。
土産としては「ままどおる」を購入。西日本の「母恵夢(ぽえむ)」とよく似ている。
これは、もう何年も前の事だと思うが、
「探偵ナイトスクープ」という番組で、
地元のCMソングが何度も流れていたのが、いまだ耳に残っていて、サブリミナル効果となっている。
郡山まで、快速で1時間。乗り換え7分で、小走りに陸橋を駆けていると、乗ろうとしている電車は超満員で、
数分後に出る便は空いているので、そちらに乗った方がいい、という、
またも親切な場内放送が流れているが、その次の駅の乗り換えの関係で、妥協はできないのである。
恐らく、他の客も、似たような事情があるので、超満員なのであろう。
黒磯まで63分。せいぜい、といいたい所だが、足が棒のようになっており、かなり辛いものがあった。
青春18切符を利用して、福島県あたりに、お盆で帰省していた学生や夫婦、家族らが、東京に帰ろうとしているのだ。
ううむ。この経路は取るべきでなかった。
見るからに、大学1年目の女子大生が、郡山の実家から下宿先の東京へ戻ろうとしている風の女の子が、
初め、ドア付近で少し離れた所に居て、白河であったか、少し降りる客があって、私が中の方に移動すると、
彼女も付いてきて隣に立った。何か意味ありげに私を見ていたが、やがてキャスタ付トランクを傾け、
中から何か取り出したり、手荷物をしまったりした。「はは〜ん」
私は、背負っていたリュックを足元に置いたので、
彼女は、固定できないキャスタを私のリュックを壁にしてトランクを傾ける事ができたのである。
私がリュックを足元に置いたから、隣まで移動してきた、とも云える。
チクショー。また、いいように利用されてしまった。ただ今回は、一応、目線で許可を求めたつもりのようではある。
一応ゆるそう。
それから、しばらく経ってからだが、何気なく彼女の方を見ると、真後ろにヒスパニック系の外国人が立っていて、
彼女に異常接近しているように見える。彼は人相が凶悪そうで、いかにも怪しい雰囲気を醸し出していた。
また、その隣の隣あたりに、もう一人のヒスパニックが居て、こちらは強面(こわもて)ではないが、いやらしそうにニヤけている。
おお。これは、スリを狙っているか、或いは、痴漢か。連携してそうな所はスリだが、
女子大生が大金をポケットに入れているとは思えず、雰囲気的には痴漢を狙っている。
彼女はトランクの開け閉めをする際、進行方向、つまり私の方を向き、私のリュックにキャスタを当てたのだが、
その後もずっと私の方を向いたままである。よって彼女の真後ろにいるヒスパニックも、私に顔を向けている。
私は彼女に気をつけるよう忠告したかったが、もし日本語が理解できたら、彼は不機嫌になるだろう。
また、人相凶悪で二人連れと言う事で、漠然と恐怖感も感じた。
そこで、私は目で物を言うかのように、彼女に念を送ったが、全く意に介する風もなく、
むしろジワジワと後ずさっているので、「をいをい」と言いたい気分だった。
やむを得ず、私は二人のヒスパニックを目で牽制しようとしたが、
真後ろのヒスパニックは、次第に表情が曖昧になり、殺気が消えていったので、
私も特に企みがあるわけではあるまいと考え直した。
その後、何事もなく黒磯に到着。というか、黒磯からは、通勤快速で首都圏までマッシグラなので、
次の電車で座れないとなると、事は深刻である。如何に早く降りて集団を追い抜いていくか、
という事ばかり考えていたのである。
が、一応、通勤快速は車両の数が多く、待ち合わせ12分、という事も有り、無事に座れた。
しかし、山の手線のように、全員、窓を背にして座る席なので、とても駅弁は食べられない。
かくて、18時58分、赤羽で降り、埼京線に乗り換えている内、駅弁の消費期限が過ぎた。
さて、新宿で埼京線から小田急に乗り換え、
はるばる町田まで行く。町田バスセンターから「西条法務局前」経由広島バスセンター行きの夜行高速バスに乗ろうとしている。
バスは21時発。町田に着いたのは20時15分ごろである。
バスセンターには、長距離バス用の待合室があり、駅弁を食うには格好の場所であった。
既に、成田空港行きに乗るつもりの外人カップルが、マック・バーガーを食っている。
健康奨励弁当の中身は、大豆の一口ハンバーグ、鮭の黒じゅうねん揚げ、会津地鶏のハーブ焼き(GOOD!)、
おからの千草焼き、車麩の揚げ焼き、花豆と牛蒡(ごぼう)の煮付け、肉団子の餅米蒸し(GOOD!)、
会津産コシヒカリの一口胡麻むすび、紹紫黒米の一口むすび、である。
消費期限を1時間以上経過しているが、中々華やいだ雰囲気があって好い。
バスに乗り、これも会津若松駅で買った福島県の地酒を飲みながら、疲れた体は自然に眠りを求めた。
(了)
|