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平成十八年九月卅日
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Seminar

安芸高田市吉田歴史民族資料館公開講座
毛利元就の「武略」の実像
−郡山合戦と厳島合戦−
県立広島大学人間文化学部
秋山伸隆教授


いやはや長いタイトルだ。吉田歴史民族資料館の恒例・公開講座、その中でも秋山教授の講演は特に人気がある。 当サイトも3年連続で紹介する事になる。 ただ私は、年々ディテールに拘る気難しい性格になっているので、 全てを紹介すると、また、全20話の2か月連載物になってしまう。

実際、全てが目新しい話題でもないので、 今日は、ピンポイント攻撃で、いく。それが「厳島海戦は無かった」という、メイン・タイトルである。 これは私の脚色であって、原題には、無い。

秋山教授は、冒頭しきりに、二番煎じ、三番煎じの内容だと謙遜されていたが、 しかし西郷文書という古文書の中から発見した弘中隆兼書状については、 さしもの毛利研究家・福原雅俊も、びっくり仰天というしかない。

その文書は、比較的入手しやすいようだ。平成5年3月発行の「豊前市史・考古資料編/文書資料編」5000円に所収という。 在庫があるとすれば、豊前市役所に電話で問い合わせると購入できる模様である。 私が9月の講演を今頃(10月20日)紹介しているのも、紀行文に手間取っていた事も一因だが、 もう一つには、紹介する前に「豊前市史」を入手しておかないと、読者に先を越され、 在庫が払底してしまう事を恐れたのだ。 私は、豊前市役所の電話番号を携帯に登録しておきながら、ここ一週間、お昼休みに電話するのを忘れっぱなしで、 結局、本稿は見切り発車である。

弘中書状については、全国紙でも、中国新聞の文化欄でも、ニュースにはなっていない。 いわんや報道ステーションや、めざましテレビに於いてをや。

が、私にとっては、驚天動地の大激震であった。但し、偽文書でなければ、であるが。 いくつかの疑問点はある。まず「西郷文書」とは何者か、が解らない。 やふっても、ぐぐっても、簡単には説明が得られない。 何となく西郷隆盛と関係ありそうで、となると幕末に編纂されたとか、 となると、原本でなく写しじゃないの、とか、疑心暗鬼になる。

一通は、9月29日付の宮島の隆兼発、奥方宛の書状だが、これが何ともハイカラだ。 この時代、女性は名前すら解らないのが相場なのに、奥方を「こん」と名指しし、娘は「うめ」である。 明治初期の小説と余り違わない。ここまで女性が固有名詞、しかも実名をひけらかす書状が、 この時代、他に例があるのか、大変興味深いところである。

29日と言う日付が、また絶妙である。その夜、元就父子は、全軍、厳島に上陸した。 面白いのは、奇襲、という固定観念を根底から覆す、隆兼の悲観振りである。 「渡海した上は、討死の覚悟はできている」「警固や三浦などに唆されて、この有様である。悔しい」

防州衆の安芸侵攻には、厳島経由の海上ルートの他、山里(廿日市市佐伯町)経由桜尾という山間ルートが有力だった。 当初、陶軍は山間ルートを重視し、毛利方も山里に要害を設けて警戒を怠らなかったようである。 「棚守房顕覚書」から、その状況をうかがうことができる。

それにしても、三浦氏の主戦論に踊らされ、弘中隆兼の主張は退けられ、厳島ルートが選択された、 というのは、陰徳太平記など軍記物の脚色と思っていたが、 この書状が本物とすれば、文書が軍記物の正しさを立証する、という、地方史マニアが泣いて喜びそうな、 絵に描いたような好例となる。

これに対し、私は、幕末ごろ世に出た文書は、むしろ、軍記物を正当化する意図をもって偽造された可能性がある、 という仮説を胸に秘めて、観察する事にしている。

もう一通の書状は、一族の誰か(弘中対馬守)と、その誰かが親しくしている僧侶(諸朴軒)に当てた漢文で、 9月28日付。こちらは、冒頭、実に興味深い事が書いてある。 「敵船、うしろまきとして、数艘、渡海せしめ、敵城へ人数差し込め相成り候。こなた警固、数、これなきによって、 このごとくの儀、是非に及ばず候。既に水の手まで掘り崩す事に候」

落城しそうだった宮の尾城に、熊谷らの援軍に、まんまと入城されてしまった、という。 それは、陶氏の水軍の船数が少なかったから、そんな事態を招いた、というのだ。

ここに「周防水軍は、当時、厳島にいなかった」「よって厳島海戦は無かった」 「厳島合戦の実態は、ほとんど島内の陸上戦だった」という、通念を打ち破る画期的な指摘なのである。

「房顕覚書」では「当島の城こころもとなしとて、熊谷信直、26日、船数五六十艘にて当城へ入りたまう。 城の気負い是非に及ばず」とし、妙に符合する。妙に、というのは、いずれも「是非に及ばず」という表現を用い、 しかも、その意味が微妙に違っている。それはともかく、熊谷の入城成功が、思いの外、陶勢の意欲を喪失させた効果があったというのだ。

その一方、水の手まで掘り崩したのは、陶勢の成果である。 小早川文書では、熊谷が宮尾城に入ってみたはいいが、水源を奪われ、もはや風前の灯火だ、 と元就が、ここに至っても来島水軍が到着しないので、パニックに陥っている。 その事は「房顕覚書」には言及がない。

弘中書状は、複数の文書に断片に描かれた事が、一通り盛り込まれ、 もっとも事情に通じた内容に見えるが、それにしても、「是非に及ばず」と「水の手」が文脈として円滑につながっていない。 何か、水の手の件が、悲観論に拍車をかけているような筆の運びなのが、理解に苦しむ点である。

また、28日という書状の日付は、「二宮覚書」が熊谷入城を28日としている事と符合しているように思われる。 二宮は26日には来島水軍が来援しているとしており、この流れを踏まえれば、弘中書状の悲観論も成る程とうなづける。 ところが!「房顕覚書」と「小早川文書」は、26日に熊谷入城で、28日に来島水軍到着、という順序であり、 こちらの方が信頼性が高い。 従って、西郷文書の弘中書状は、信用すべき一級資料より、若干記憶が混濁した「二宮覚書」の方を下敷きにしてしまっている、 という気配がある。

一方、西郷文書の2通の書状は、フィクションとは思えない独自性も感じられる。 漢文書状は、一族とともに僧侶に当てているが、これは隆兼が了善と言う僧侶を連れて厳島に在陣しており、 了善は、ついに隆兼父子とともに切腹するに至るほど、隆兼に追従している。 どういう意味であれ、武将と僧侶が仲良くしている状況が符合する。 これは全国的にも知名度は高くなかったはずの「房顕覚書」と合致するのが、重要な点である。 また、奥方への書状は、文脈、文字使いが一貫しており、父の娘を思う気持ちが素直に迸っており、 創作だとすれば、まさに名作である。

また、この2通がまとめて出てきた理由も推測しやすい。死の直前に、隆兼が娘を案じて聟を手配しようとした手紙が、 奇跡的に宮島を出て、あて先に届けられた。一族は、すぐさま大友氏の領地へ亡命したのであろう。 隆兼は、息子・源太郎ともども自刃したので、子孫は娘しかいなかった。 聟を迎えた娘は、唯一の弘中家の継承者である。 隆兼の遺言状というべき、2通の書状は、一族や奥方から、娘に、家宝として大切になさい、と手渡され、 娘も父のかけがえのない思い出として、大切に保管したものと思う。

ひょっこり出てきて不思議がない。ああ、私も、それなりに古文書は目を通してきた。 要は、本物なの、偽者なの、はっきりなさいよ、と言われても仕方がない。 ずぱっと断定したいところだが、私自身、首をかしげること頻りである。 ただ、感状のように紋切り型の短文なら、いくらでも偽作はできようが、 ここまでヒトまとまりの文章を創作するのは、相当な才能がないと無理であろう。

ところで「数これなく」というのも面白い所で、 船が全くなかったのでもなくて、数が足りなかったのだというのだろう。 「房顕覚書」にも、「(元就は)船数が不足していたので、来島水軍に使者を差し向けた」とする。 数の争いに、物理的衝突が伴うとは限らず、船数は、核の抑止力とも相つうじるものがあったのでは。

秋山氏は、事前に毛利氏が周防水軍と気脈を通じていた節があることから、 9月28〜29日、周防水軍が、既に毛利方へ離反し、ために、隆兼が戦況を悲観したのでは、と推測される。 が、隆兼は、裏切りがあったとは言及しておらず、数の不足を唱えているのであり、 家族には、死を覚悟して文章を書くのは、念のための心得であり、実際に危機が迫っているのではないから、 心配せぬように、と書いているが、水軍が裏切ったのであれば、そのような気休めも無駄というものである。

そこで、私の持論を再び持ち出すのだが、 毛利氏にとっての来島水軍も、陶氏にとっての周防水軍も、関係は根本的には違わない、 そもそも水軍は、戦力として動員できているわけではなく、島の大軍のため、食料を運搬したり、 嵐に紛れて、大軍を一気に島へ上陸させたりという、輸送力、つまり、海上タクシーとしての役割しか請け負っていない。 支配者はまだ、彼らに運賃を支払う程度の経済力しかなく、 船という固定資産に丸ごと投資するほどの胆力はないので、 水軍は、支配者のために自分たちの貴重な財産に傷をつけるリスクは負いたくなかった。

26日も、船が大挙、島に停泊しておれば、これが抑止力となって、毛利水軍も自重したか知れぬが、 食料の運搬のため、周防に引き返している最中だったから、スキをつかれた、というものではないか。 油断して船数が一時、少なくなっていた、とか。

ともかく、合戦当日、周防水軍の船が少なかったからこそ、海戦の記録が希薄だったのだし、 晴賢が島外に脱出する事もできなかったし、8000人という大量の犠牲者を出した。 全て合点が行く。

来島水軍も、300艘で4000人ほどの兵を、片道一回で輸送し終わると、さっさと戦場を立ち去った。 元就の覚悟もあるが、運賃をかなり値切られたので、水軍は、長居する理由がなかったのであろう。

毛利軍にとっての来島水軍は、タクシー以外の何ものでもなかったが、 来てくれないことには、軍の輸送もままならず、作戦は成功しなかったのである。 (了)



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