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平成十九年十月廿七日
(Last updated : 2007.11.18) | ||||||
Tour
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美しき江南4日間 |
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烏鎮(うちん、Wu Zhen)は、水郷の歴史的景観が保存された町である。 日本の「重要伝統的建造物群保存地区」のようなものである。 有名な観光地であり、川に沿って建物が並び、通りの両側に土産物屋や、カフェも多いので、 どことなく、倉敷景観地区と似た風情がある。 しかし、家並みの全てが商業化されているわけではなく、石段をおりて、川で洗濯する老婦の姿もある。 生活が営まれているわけだ。 でありながら、その区域全体は柵で囲われ、券を買って入場し、順路に従って散策する。 日本には類を見ない観光地のスタイルである。
ほぼ15時、バスを降りた一行は、ガイドさんがチケットを購入する間、東柵景区の入口脇のトイレへ。
私は、柵の左橋に土産屋があるのを見て、僅かな時間的間隙を利用して駆け込み、三白酒の料金を尋ねると、500MLで45元(約725円)との由。
これを参考価格として、中で買い物をしようと、一行の行列に復帰する。
入口を過ぎると正面に東柵景区の案内図がある。
国内の史跡探訪旅行などでは、この案内板が唯一の手がかりだったりするが、
ここではガイドさんに付いていくだけなので、参考程度に見るだけである。
ふと隣に、最近オープンしたばかりの西柵景区の地図があることに気づいた。 こちらの方が、真新しく大きく、興味をそそられる。で、写真を撮ったが、 帰国してみると、なぜか、中国人のおじさんが、ポーズを決めて枠に入っているではないか。 こういうのは個人情報になるので、サイトには掲載すべきでないと思うが、 円満な人相に敬意を表し、敢えて無修正で掲載致します。 さて、烏鎮の「鎮」は、行政単位である。 「中日大辞典」(愛知大学中日大辞典編纂処)には、 「中国の行政単位の一。中華人民共和国憲法によれば、郷と並んで県の下に位する行政単位である。 郷は一つ又はいくつかの村落をあわせたもので、鎮はそれより人口が多く、ある程度、商工業が行われているところをいう」 とある。 現在の中国では、省の下に、市ないし県があり、県の中に、鎮が点在している。 もっとも私は烏鎮一帯の詳細地図を持っておらず、正式な住所はよく分からない。 浙江省桐郷市に所属しているように思う。 とすれば、烏鎮という地名は、現在の行政単位としてではなく、歴史的呼称で呼ばれているものであろう。 中国では有名な作家、茅盾(ぼうじゅん)は、日清戦争から2年後の1896年、ここ烏鎮で生まれた。 彼の回想録によれば、紀元前500年ごろ、春秋戦国の呉が越の侵略に備え、この地に駐屯軍を置き、「烏戌(烏の守備隊)」と呼んだのが地名の初見らしい。 「烏」という文字が使われている理由は、越王の庶子「烏余氏」が、この一帯に封ぜられた事に由来する、 というのが一応の定説とか。 ところが、早くも魏晋南北朝時代(3-6世紀)の間に、市河を境に、東を青鎮、西を烏鎮と呼ぶようになり、 清の時代、1645年には、烏鎮は湖州府烏程県に、青鎮は嘉興府桐郷県に正式に編入され、上位の行政単位まで違ってしまったのである。
今、入場した東柵景区は、茅盾の時代にも青鎮であったが、土地の人は、履歴書を書く時以外は、
「烏鎮の者」と自称していた、という。1500年もの間、正式な地名より、紀元前からの通称を用いていた事になる。
さすが悠久の歴史!
入口から遊歩道を経て、東市河に至ると、まさに古い瓦ぶきの建物が見えた。
法律により、住民が勝手に改造できない由だが、屋根がグニャグニャに波を描いており、どうみても耐震基準を満たしているように思えない。
が、この一帯は地震はないそうである。
柄の派手な蒲団が干してあるところは、何となく生活感があってよいが、正面の建物は、カフェを営業しているせいか、 無粋な観光客が窓から外を眺めている姿を、対岸の雑踏のようにひしめき合っている人たちは見物しなければならない。 行く先に、双橋という橋がある。並行に二本の橋がかかっているのである。渡った先に昔の税関があり、 入いる人と出る人を分ける必要から、との由。 烏鎮は、昔、総合商店街であった時代から、柵で囲って入場料を取っていたのである。 ガイドさんによれば、上海周辺に古鎮は数多けれど、古鎮の必須アイテムは、双橋・流水・人家である。 全て揃って、初めて本物である、との由。
「マージャン知ってます?」 先ほどから、雑踏の中、私にひっつきもっつきしながら付いてきていた女性が話しかけてきた。 そう、カメラマンさんである。 先ほどサービスエリアで話しかけたので、話しやすくなったものと思われる。 「昔やっていたけど…」と答える私。 実は実戦経験は僅かしかなく、ほとんどパソコンのゲームでの一人プレイであるが。 カメラマンさん、麻雀のルールは知らない。
新婚さん用。銅鐸のようなものが吊下がっているが、 これを吊るした夜は、夫婦の営みが予定されており、お手伝いさん、Do Not Disturb、という意味があるらしい。 少女の一人寝用。なるほど、シンプルなところがリアルである。
何やら四字熟語が彫られ、コテコテに装飾されたもの。
中々充実した展示であった。撮影も禁止されておらず、いい写真が撮れた。 しかし写真に夢中になると行列から遅れがちになり、 しばしば、行列の最後を監督する役目のカメラマンさんと目を合わす。 15分程度の滞在の後、百床館を出て、東大街を歩き続けるが、景色が単調になり、 カメラマンさんが引き続き世間話をするので、次第に写真を撮るのが疎そかになった。 今回は新調したデジカメには、バッテリーの予備までは買っておらず、フラッシュやら動画やら多用するものだから、 ホテルに着く前にバッテリーが切れる事を心配し、少し慎重になった面もある。 しかし、烏鎮は、この旅程で最も楽しみにしていた場所なので、 今にして思えば、残念な事をした。 「ふくばらさーん!」 と、遥か前方のガイドさんに、名指しで呼ばれ、何かと思うと、 「三白酒は、ここで売っていますよ!」 三白酒坊である。をを!とばかりに売り場へ向かう。 と、ここで、同行の一人の老人が、私の言動をマークしていて、 「をを、ワシもそれを買おう」と付いてくる。 500mlで38元(約613円)。確かに最安である。 度数55度であるから、バリューフォーマネーである事は間違いない。 奥の方に酒壺が並んでいる所を見学もできたようだが、行列をとめて買い物するのが精一杯。 将来の個人旅行の下見とでも考えるしかあるまい。 さらに東大街を歩く。途中、「烏青水龍会」という看板が。住民による消防団との由。 烏青という言い方は、例の「烏鎮」と「青鎮」の総称である。 さらに東大街を歩くが、茅盾故居が中々現れないので、 カメラマンさんに「ボージュンコキョを通り過ぎていないですか?」と尋ねたが、 「ボージュン」という音読みが通じないため、リュックに入れておいた「茅盾回想録」を取り出して漢字を見せると、理解してくれた。 が、ちょうどその時、順路案内の標識が現れた。 カメラマンさんは、本を珍しがり、 「茅盾と言えば、子夜(ツーイエ)という作品が有名で、私も読んだことがあります。難しかったですけど」 との由。彼女は「回想録」を開くと、冒頭部から音読を始めた。が、平仮名は読めるが、漢字の訓読みがほとんど分からず、 じきにウンザリしたような顔をして本を返した。 バスの運転手はもっとそうだが、団体旅行の随行カメラマンといっても、その人となりは不明のまま旅を終えても不思議はないが、 予想したよりも教養があり、日本語の読み書きも勉強しているようなので、 私も少し気を許せる気分になってきた。
「あれ?」生家と思いきや、そうではなかった。 茅盾の幼年期は、科挙を目指す者の私塾、まあ寺子屋みたいなものから、近代的な学制に移行する過渡期であり、 立志小学という学校の一期生である。時は日露戦争の1904年、茅盾は満8歳。 立志小学は、立志書院という大人の塾の跡地に建てられた。跡地ということは、その頃、移転したわけである。 この立志書院が移転前なのか、移転後なのかにより、茅盾の学び舎であった立志小学かどうかの分かれ目であるが、 旅行中は、そういう微妙な詮索をするには至らず、 後日、烏鎮旅游有限公司のホームページの説明などから判断して、 どうやら、ここが立志小学のあった場所だ、と私は解釈している。 それはよいが、建物の前で、女子大生っぽい、若くて威勢のよい小姐(シャオチエ)達が、 何やら大声で、我々一行に呼び掛けていた。 しかし、我々が全く反応しないのを見て、急にテンションが下がり、 「ああ、あの人たち日本人だわさ。中国語で呼びかけても何も理解できないのだから、呼び掛けるだけ無駄ね」 と、中国語でぼやいた所だけ、なぜか、私の耳がしっかりキャッチできた。 そこで、私はイタズラ心が生じ、彼女らの所へ近寄り、 「はい、確かに私は中国語ができない(プーフイ・チュンウェン)ので、貴方がたの言っている事が全く理解できませんでした(ティンプトン・ニィシュオ・シェンマ)」 と言った。 手前の小姐が、即座に「そう言えるという事は、中国語ができているという事ですよ」と返してきた。 かしこそう。やはり大学生だね。 「へ?何て?」彼女は再び言い直す。幸い二回目で聞き取れた。 それから、間髪入れず、彼女は、中国的なデザインの本の栞を買わせようとしたが、 既に一行から遅れそうになり、私は、そそくさと立ち去った。 建物には、茅盾の写真や、「子夜」の原稿の写真が掲示されていた。 カメラマンさんは、私の袖を引き、「子夜」の原稿を指差したが、 茅盾の少年期の家族の写真だの、父の写真などには無反応である。 しかし私は、回想録を読んでいた関係で、そのあたりの展示はもっと落ち着いて見たかったのであるが、 当然ながら、日本人観光客には、何も訴えるものがなく、一行は、さっと通り過ぎた。 再び庭を抜ける時、 カメラマンさんは私に蘇州の寒山寺に行った事があるかどうか、尋ねた。 そして「ユエ・ルオ・ウー・ティー」と唐詩の一節を口にした。 ああ知ってる、知ってる。 「月落ち烏啼いて…」杜甫だな。寒山寺ゆかりの詩だっけ…。 更に「シュワン・マン・ティエン」と続けたが、そこは全く漢字が思いつかず、 「へ?何て言ったの」二三度、言い直してもらったが、通じない。
そこで今出て来た観前街の奥を確認しようとするが、 通りの入口付近は、恐ろしく大雑踏で、人の頭の塊しか見えない。
「茅盾故居」は、事前の旅程表にも、訪問先としてしっかり明記してあったにも関わらず、 結局、どこにあるかさえ確認できないまま、立ち去る羽目となった。 にも関らず、その時の私は、 「月落烏啼」の続きが「霜、天に満つ」(霜満天=シュワン・マン・ティエン)である事に思い当たり、 手帳に7字書いて、カメラマンさんに見せて、へらへらしている有様で、 大きな失点を犯している事を自覚してなかった。 帰国し撮影した写真を確認してみて、辛うじて、人ゴミとともに観前街方面を撮影していた事が分かった。 何とか撮影していた事は幸いだった。 そして、写真手前の撮影部と、奥の観光施設の番号を記した旗を垂らしている 建物の中間に、二階建ての高壁で仕切られた二世帯が並んでいることに気づき、 「回想録」の口絵の写真と照らして、どうやら、そこが故居であったか、と合点が行った。 まあ、団体行動なので、その時、気づいていたとしても、内部を見学する自由までは手に入らなかっただろう。 ところで、読者の方には、私が、なぜ、忸怩たる思いを延々と吐露しているのか、理解不能だと思う。 その理由を分かってもらうためにも、少し冗長になってしまうが、「回想録」に描かれた茅盾の先祖や、本人の幼年期の出来事を紹介したい。 …… 茅盾の家の名字は、「沈」である。その先祖は、日本で言えば江戸時代、近郷の農家から身を起こし、烏鎮に出て、葉タバコ店の経営を始めた。 家内工場と売店を兼ねた店である。 その後、ヒイおじいさんが、中々骨のある人物で、日本で言えば幕末、1865年、30歳にして単身、上海へ出、雑貨問屋で働いた。 ヒイおじいさんには商才があり、経営者の信頼を得て、やがて漢口の支店を譲り受けるに至り、しばらく羽振りもよかったが、 ある時、商品の値が急落し、在庫が積み上がり、資金繰りの手当てで高利の借入を行い、やりくりがつかなくなって、店の売却に至る。 店を売って残った僅かの資金で、知人に勧められるまま、役人の株を買い、広州で税関関係の仕事に着く事ができた。 その生涯において、少しづつ学問にも目を開き、3人の息子たちには、勉強に励んで科挙の合格を目指すことを希望するようになる。 ヒイおじいさんは、店を任された漢口と、経営者の本店がある上海を行き来する間にも、 長男と二男のため、烏鎮に、紙屋と雑貨屋を立ち上げ、子供達が烏鎮で生活できる基盤にも手を回していた。 また、広州で役人をやっている間には、定年退職後に一家で済むための家を買うための資金を、息子たちに託した。 茅盾故居は、つまりは、祖父とその兄弟が、曽祖父の隠居後に一緒に住むため物色した家であった。 が、帰郷したヒイおじいさんは、そのあまりの手狭さにがっかりし、奥の庭に離れを建てて、死ぬまで妻とそちらに住んだそうだ。 二世帯といっても、もともと一世帯だったものを改造したらしいので、 曾祖父夫婦、三兄弟夫婦に、下女たちも生活するとあっては、狭すぎるというのもうなづける。 なお、世帯を仕切る高壁は、日本でいう「うだつ」、うだつがあがらない、の「うだつ」であろう。火事で延焼を防ぐのが目的で、 日本では、分限者ほど立派な「うだつ」をあげるものとされている。烏鎮も似たような文化ではないかと思う。 祖父の兄弟は、親のすねをカジって生きていくことしか考えがなかったようで、 科挙の勉強についても、受験資格を得るための地元の試験は合格し、「秀才」と呼ばれるステータスまでは行ったが、 3年に1度、省都(浙江省の省都は杭州市)で行われる郷試には、落第し続けた。 それでいて自ら稼ぐ甲斐性は、なかった。 親が御膳立てしてくれた紙屋と雑貨屋は、有能な番頭のおかげで経営が成り立っており、 息子たちの才能に失望した曽祖父は、家業は番頭に任せ、下手な口出しをしないよう、息子たちに説教した。 ヒイおじいさんの長男の息子、つまり茅盾の父も、同じように自らは働かず、さりとて郷試にも合格できなかったが、 時節柄、西洋の科学の高価な専門書を買い求めたり、日本の明治維新などもよく調べていた。 また、医者の娘をめとった縁から、一時、義父(茅盾としては外祖父)の家に弟子として住み込み、医学を学んだ事もある。 中々のインテリゲンチャであったが、1906年夏、僅か34歳で他界した。 茅盾が立志小学で学んでいた時だ。 そんな父だから、息子には、これからの国家の担い手になるため、理科系の学問をしっかり身につけるよう遺言し、 母に、教育の任を託した。母の躾は、それゆえ厳格だった。 立志小学の終業の鐘が鳴っても、茅盾がすぐ帰宅しないと、どこへ寄っていたかと口うるさい。 ある時、いつものように終業後、一目散に帰ろうとすると、クラスメートに呼び止められたが、 振り切って帰ろうとすると、友人は立志小学の庭の植木の根につまづき、かすり傷ができて出血した。 クラスメートは、茅盾の家まで付いてきて、母に「茅盾のせいで怪我させられた」と告げ口した。 母は、治療代を持たせ、友人が帰った後、二階の母の部屋へ茅盾を連れていき、 戒尺(折檻用の大きな長い板)を取り出して、茅盾を打とうとした。 「チャングムの誓い」でチャングムや、その娘が、母にふくらはぎを打たれた時のアレだろう。 茅盾は、それまで裁縫用の物差しで打たれた事はあるが、戒尺を目にするのは初めてだったので、 思わず恐怖にかられ、その場を逃げ出し、立志小学の担当の先生に助けを求めた。 担当の先生は、茅盾の家の外から、二階の母を呼び出し、茅盾に非はない事を証言し、また、こうも言った。 「後漢書・隗囂(カイゴウ)伝に『親につかうるに、小杖は即ち受け、大杖は即ち走る』とあります。息子さんの行いは、間違っていなかったのです」 母は無愛想に「謝々(シェシェ)」とだけ言って、奥に引っ込んだので、祖母は、母がまだ茅盾を許していないと推察し、 部屋へ連れて行くと、母は茅盾を抱きしめ、「お父さんが生きていてくれていたら…」と言って咽び泣いた。 「先生は何て言っていたの?」 母がいうには、孝行息子たるものは、親の小さな杖には素直に打たれるべきだが、大きな杖で打たれそうな時は、 怪我をすると却って親を悲しませるので、走って逃げなさい、という、昔の故事なのだった。 茅盾が逃げたのは、孝行息子の証拠だった訳である。 …… このように、自分の先祖や自分自身の、さしてドラマチックでもない、普通の出来事であるが、 知らず知らず引き込まれ、登場人物のキャラクタに魅力を感じてしまう所は、さすが大作家の文章は違う! …… さて病を発した父は、妻の家筋の名医に見てもらっても病状はよくならず、 ある時、ていうか、日露戦争の翌年、1905年だが、 上海に来ている日本人の西医(西洋医学の医者)に来てもらった。 会ってみると女医だったので、親戚一同、大いに抵抗を感じている。 当時、日本にも女医がいて、上海で活躍していたというのは、大変珍しい事ではないかと思う。 彼女の診断は「骨ろう」であった。肺結核の菌のようなもの(ロウ)が骨髄に転移している、というのである。 今でいうガンの末期症状ではないだろうか。 父は、それを聞いて、4元という、恐らく当時の大金をはたいて女医から買った薬も、結局気休めでしかない、と悟った。
が、祖母は、それではおさまらず、城隍廟の縁日(旧暦7/15-17)での神輿行列における「亡者」の役を、9歳の茅盾にやらせようとした。
身内の病人を回復させるのに効果があるという迷信があったのである。
この縁日は、土地では旧正月の行事より盛大に行われる。神輿には、少年少女が、中国では有名な説話である白蛇伝のヒロイン・白娘娘(パイ・ニャンニャン)や、
七夕の牽牛織女に扮して担がれる。亡者の役は、白木綿の布を腰に巻いて、手枷をつけて歩かねばならないが、
幼い茅盾にとっては、エキサイティングな経験だったようだ。もっとも、実際に参加してみると、行列の全体像が見えないので、
生家の二階から行列を見物した方が楽しかった、と後悔している。
故居の前の広場の、古戯台の向かい側には、修真観という道教のお寺が今もあるが、 ここの祭神は道教の最高神・三皇大帝であるのに対し、神輿の城隍神は、その下っ端に位する神様であるため、 この修真観の前に出た神輿は、鳴り物を鳴らすのを止め、一斉に走って通り過ぎようとするのだそうだ。 生家の二階から見物すれば、その「走り神輿」の様子も手に取るように見える、と書かれている。 …… これらの件(くだり)は、本で読むだけなら、「ふうん、あ、そう」で終わりだが、 こうして実地を訪れ、「あ、立志小学と茅盾の家は、お隣さん同士であったか。道理で…」 と、小説がそのように描写する背景が理解できて、目から鱗なのである。
まあ、これが「福原的旅行の楽しみ方」である。「知って行く」と「行って知る」…脳の中で、点と点が線でつながる瞬間である。
何とか、格安団体旅行であっても、それを可能にする執念。
さて、東市河をまたぐ興華橋を渡り、川沿いの石畳の道を、来た方向へ引き返す。 そうしようとした時、橋のたもとには、遊船碼頭(遊覧船の波止場)。 ガイドさんによれば、人数は何人でも80元(約1,290円)で、出口まで連れて行ってくれる。 希望者が8人そろえば、一人10元と集金もしやすい。 「少人数なら遠慮するが、8人そろえば乗りたい」と私が言うと、「福原さんと同じ意見でーす」という声が多く、 では手を挙げてみましょう。7人。あと一人が出てこない。 諦めた頃、親子連れの息子さんだけ参加することで決した。
手漕ぎの小型の船で、一応屋根付き。
さいわい西日が背後から差し込み、前方の川沿いの家並みが妖しい輝きを放つ。
川沿いの人家は、部屋が出窓のように川に突き出し、その下に洗濯用の石段が見える。川が部屋の一部、といった風情。
オバさんは、奥から紙コップの筒を持ち出してきて、一つを外し、「これ持って行きなさい」と私に手渡した。 商売の事は完全に棚に上げ、大阪のオバちゃんに飴玉をもらった少年のようなシチュエーションに置かれ、 とりあえず、丁重に御礼を言って、その場を立ち去った。 16時40分ころであったか、バスは紹興へ向けて出発した。 中々一日が終わらず恐縮だが、私も原稿を書き疲れたので、今日はここまで。 (つづく) (1)出発 | (2)中餐 | (3)烏鎮 | (4)紹興 | (5)孔乙己 | (6)紹興酒 | (7)七層塔 | (8)西湖十景 | (9)杭州の夜 | (10)杭州の朝 | (11)太湖 | (12)恵山寺 | (13)地鉄 | (14)中国茶道 | (15)豫園(最終回) |
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