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平成十九年正月五日
(Last updated : 2006.11.6)
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NHK大河ドラマ「毛利元就」放映10周年記念企画 毛利元就!2007
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あらすじ

火矢が三本、宙に放たれる。 矢は、楯板に、正三角形の頂点をくり抜くように突き刺さり、 一文字三星(いちにみつぼし)紋となる。毛利氏の家紋である。

日本列島の鳥瞰図の中の、広島県安芸高田市吉田町の部分が拡大され、 戦国時代、中国地方の全ての山と海を手中に収めた一人の武将が紹介される。 毛利元就(もうりもとなり/1497−1571/中村橋之助)である。

が、彼の生涯は決して平坦なものではなかった。 周防(すおう)・長門(ながと)などの守護・大内義隆や、出雲(いずも)の守護・尼子経久など、 周囲を強大な勢力に囲まれていた。 元就が生まれた安芸国(あきのくに)は、その二大勢力が激突する境目で、 そこには、国人(こくじん)と呼ばれる小領主がひしめきあっていた。 毛利氏も、いつ滅ぼされるとも知れぬ国人領主の一つに過ぎなかった。

しかし毛利氏は、僅か数十年の間にライバルを次々と打ち倒し、中国地方全土を制覇するに至る。 云わば、地方の中小企業が国際的な大企業になったようなものだった。 その大事業を一代で成し遂げた男、毛利元就の物語の、始まり始まりぃ!

と、ここで初めてのタイトル・バック。感動の瞬間である。 岩から一滴の雫が落ち、その雫が筆を運ぶかのように、優雅な行書体で、 「毛利元就」と題字が描かれる。これは、現存する自筆書状から、本人の許諾なく写し取られたもので、 これがため、元就は、ドラマのスタッフの一人、題字の書家として紹介されている。

もっとも、この題字は、考証を担当した広島大学岸田教授が、自筆書状群から、 最も達筆な文字を選び、CG合成したものであって、

「実際の自筆書状の署名としては、かほど優美な筆跡のものは皆無である!」

と云うことを、福原雅俊は、山口県文書館の方から聞いた事がある。

緑の苔むす巌の間を水が流れ、水に浮かんで笹の葉が流され、流れはやがて滝となる。 滝は、女王滝といって、三原市本郷町広島空港の近くにある。 映像にとらえられた勇壮な情景は、 実際に訪れてみると、ビジュアル的には誇張はないが、 空港の排水を含んでいるのか、異臭がするし、岩場は茶色く変色したりしている。

タイトル後半、厳島神社が現われ、 大鳥居のある御笠浜(みかさのはま)に潮が満ちていく様子が早送りで撮影される。 厳島は、風化しやすい花崗岩なら成る島だが、標高530mを越える弥山を抱える細長い尾根筋からは、 登山家の練習コースになるほどの急斜面が下っている。

そういう訳で、悠久の歴史の中、神社の背後に注ぎ込む川は、何度か大規模な洪水を繰り返している。 いや、有史以前から数えれば、数限りなく、と言い直した方がよい。 ともかく、そんな事情より、鳥居のある浜は、花崗岩粒の堆積で、いわゆる扇状砂州になっている。

更に、昨年(2006年)には、広島大学の三浦教授が、 御笠浜は、清盛が厳島神社を造営するため、 大規模な造成工事を施したものである、という新説を発表された。 (と言いつつ、千葉県にある国立歴史博物館が記者発表したのが、昨年なのであって、 その前年には、RCCという広島のテレビ局による広島大学セミナーの番組にて、 三浦教授は、事もなげに、その見解を述べておられた・・・) ともかく、満潮時に神社の背後の石垣まで到達した海水が、 干潮時には、378m先まで後退する、というスケールの大きさは、 清盛が、その効果を計算ずくで、砂州を平らに削る工事を行ったためである可能性もあるのだ。

話が大きく脱線したところで、本編の復習を始めよう。

1499年(元就3歳)、安眠を妨げる半鐘の声が闇を切り裂き、兵士らが慌しく吉田郡山城に集結する。 喧騒にまじり、松寿丸(しょうじゅまる/後の毛利元就/岩渕幸弘)が、館(やかた)を抜け出す。

半鐘を鳴らしたのは、経済担当相の井上元兼(片岡鶴太郎)で、出雲の尼子経久(緒方拳)が領内を通行している、 という通報に基づいての事だったが、 外交担当相の桂広澄(草刈正雄)は、途方もないデマで夜中に家臣団を呼び集めるとは以(もっ)ての外、と井上を責め詰(なじ)る。 軍議が紛糾する中、毛利弘元(元就の父/西郷輝彦)は、井上も忠臣、桂も忠臣、いずれも大儀であった、 と家中の機嫌取りに追われる。

が、実際、お忍びで毛利領内を通過中の経久を、松寿丸(3歳)は目撃した。 翌早朝、石見路備後路に派遣した物見が、続々と大手門を通り抜けて戻り、何も異常ない事を告げる。 その大手門は、大河ドラマのロケ撮影用に、「毛利元就村」という公園を臨時に開設し、そこに有ったように記憶する。 何しろ1996年12月22日に一度訪れたきりで、今は撤収されて跡形もなく、わが記憶も定かではない。

火の見櫓や中世の庶民の長屋、武家屋敷もあったかな?入り口で、化粧品メーカーの社長・山崎宏忠さんが、 その著書「毛利元就入門」を売っておられ、その場でサラサラとサインをしてもらった。

火の見櫓については、その後、町内の星ヶ城という毛利氏の支族の城跡に移築され、現存する。

昨夜来の騒ぎが何でもないと解ると、家臣団は、憮然として散会する。 弘元の妻・祥(さち)の方(竹下景子)の父、 福原広俊(ふくばらひろとし/笹野高史)が土産の握り飯を持ち帰るように、と呼びかけるが、 家臣団に無視される。

弘元はグッタリ気疲れして、館に戻る。病弱な正室・祥の方に代わって弘元をなぐさめるのは、 側室・杉の方(松坂慶子)であったが、 キャピキャピしすぎて、今一つ弘元を癒す存在になりきれていないようだ。 そこへ松寿丸が這入ってくるが、松寿丸は、実母のライバルである杉の方の存在が気に入らない。

松寿丸が昨晩、尼子経久を目撃した事を弘元に告げている時、弘元の近習が、井上元兼の来訪を告げる。 この近習こそ、若き日の小日向文世である。 思いがけぬ名優が、思いがけぬ脇役を演じているのも、古いテレビ番組を見る時の楽しみであろう。

その夜、桂広澄は、毛利領外に宿泊する尼子経久の元を訪ねる。密かに通じていたのである。

続いて大内義興(細川俊之)登場。山口(山口県山口市)の築山館に朝鮮の使者を迎えているようである。 井上元兼が、その館を訪れ、陶興房(夏八木勲)と対談している。 (この俳優、夏木勲と改名して長い年月が経っていたが、1997年には、元に戻していたようだ) つまり、毛利家中は、大内派と尼子派に二分されているというわけである。 大内氏は、尼子派家臣の存在も、弘元が酒害におかされている事も察知していた。

井上の訪問に前後し、管領・細川政元によって将軍の地位を追われ、 北陸・畿内の大名を頼っていた足利義稙(よしたね/田口トモロヲ)が、 大内氏のほか寄る辺がなくなり、山口に寄宿していた。

幕府から弘元の元へは、義稙を擁する大内氏を討てとの命が下り、 大内氏からは、足利将軍・義澄を追放するための上洛に随従するよう求められる。

対応を巡り、家中が紛糾するのを見て、祥の方は、弘元に引退を勧め、 これを受けた弘元は、幸千代丸(こうちよまる/松寿丸の兄/後藤拓也)に家督を譲り、 芳姫(よしひめ/松寿丸の姉/田島穂奈美)は、安芸国分郡の守護・武田氏に嫁がせ、 弘元夫妻は、松寿丸を連れて、吉田町多治比猿掛(さるがけ)城に転居する。

郡山城の幸千代丸を大内氏に就かせ、自分は幕府方について、毛利氏の温存を図ろうとするものである。 その後、祥の方は、松寿丸5歳の時、猿掛城で他界した。 置いていかれた松寿丸は、大木の枝の上に腰掛け、涙を拭う。

弘元ら毛利勢は、隣接する国人・宍戸元源(ししどもとよし/石田太郎)との戦闘を起こす。 エキストラによる槍隊の進軍は、CGによって、2倍の規模に複写され、 さながら一大会戦である。 このシーンはビジュアル的に印象が強く、 KOEIのシミュレーション・ゲーム「毛利元就 誓いの三矢(さんし)」でも、 オープニング・シーンの素材として採用されている。(もちろんアニメ化しているが)

祥の方の死後、弘元継室の座を巡り、月夜丸(つきよまる/元就義弟/後の相合元綱/伊勢裕樹)の母・相合(あいおう)の方(松原千明)が、 杉の方と争ったが、 福原や井上を味方につけることに成功した杉の方が猿掛城の御方様(おかたさま)となることに決した。

弘元は、酒害とストレスにより、統合失調症的な症状を呈し、 夜中、突然はね起きるや、杉の方を「宍戸の間者め!」と、 抜刀して斬り付けようとする。はてさて、それからどうなる事やら・・・、

検証

冒頭の一連の事件は、短い時間枠の中で切れ目なく発生しているように受け取れるが、 だとすれば、1499年(明応8)というには、無理がある。

仮に全てが、その年の12月中旬前後に発生したとする。 まず不自然なのは、松寿丸の年齢。 誕生日の明応6年3月14日は、現代暦換算で1497年4月25日であり、 明応8年12月15日は、同じく1500年1月24日に当たるため、 松寿丸は満年齢にして2歳9か月である。 いかに生育がよくても、尼子経久の馬に毛利の旗印が踏みじられた事を憎み、 「平家の亡霊覚悟!」と叫んで玩具の弓を射掛けるのは、 何とも頷けない。

また、足利義稙が築山館に到達したのは、楊井津(やないつ/山口県柳井市)に上陸した明応9年3月以後の事なので、 井上元兼が大内義隆に謁見して約3か月以上が経過した事になる。 更に、大内義隆は、明応8年(1499)1月の時点で、 既に義稙の周防来訪は決しており、 それを迎え入れるため、九州北部の戦線から一時引き上げていたが(「相良家文書」による)、 事情あって、来訪が延引したため、9月に再度、九州へ出陣する事に決めている(「平賀家文書」による)。 状況的には、9月以降は、義隆は築山館に居なかった可能性が高く、 少なくとも朝鮮使を優雅に歓迎している余裕はなかったか、と思われる。

次なる疑問は、元就の実祖父・福原広俊の描き方である。 弘元が、家臣団に対して優柔不断なのに輪をかけ、 広俊は腰が低く、右顧左眄している。 家臣団に対してだけでなく、祥の方が臨終の折り、 広俊は、遊んでいた松寿丸を探し出して「松寿丸殿、母上が!」と呼びかけ、 部屋に入ろうとする松寿丸には、「ささ、こちらへ」と誘導する。 広俊は松寿丸の直系の尊属なのに、である。

何か、雅子様の実家・大和田家などを下敷きにしているのだろうか。 が、広俊は毛利氏の親類筋であり、祥の方が嫁いだのは天皇家ではないのだ。 また、松寿丸は、毛利宗家の跡取りではなく、 猿掛城という、毛利宗家にとっては家来筋の、一支城の後継者でしかないのだから、 福原城主・広俊とは、将来、城主の座について漸(ようや)く同格、 つまり、実の孫の松寿丸に対し、何ら謙(へりくだ)る必要はないのである。

さて、実母・祥の方の死後、毛利弘元は、宍戸元源と大会戦を行うが、 これは有りえない虚妄である。

まず、あのように大軍が相まみえることのできる広大な平原は、 安芸高田市吉田町と同甲田町(宍戸氏の本拠地)の境目には存在しない。 岩手県江刺市にしか、存在しない!

そのような事はどうでもよいが、 実は、弘元は宍戸氏とは、当時、友好関係を維持していたので、 戦さは有りえないのであった。

それは、宍戸元源の実弟・家俊(司箭流薙刀(しせんりゅうなぎなた)など古式武道の開祖・司箭院興仙(しせんいんこうせん))が、 7年前(明応3年)、上洛し、 修験道の修行仲間として細川政元と親交を結んだ縁で、 政元独裁体制下、側近として活躍していた事を踏まえなければならない。

安芸国における宍戸氏は、管領・細川氏の力強いバックアップがあったのである。 これに対し毛利氏の上層部は、大内氏との関係を重視する考えが優勢だったが、 弘元は、一貫して幕府寄りのスタンスを取った。 かれは臨終の間際まで、宍戸氏との良好な関係を維持するよう、後進にアドバイスするが、 これ即ち、「幕府寄り=親・宍戸氏」の政治的立場を表明するものに他ならない。

その証拠に、毛利氏と宍戸氏との抗争の記録は、 弘元没後、毛利氏が家中を挙げて親・大内氏の立場を鮮明にした直後に集中している。 隣国との争いを、単なる領土的野心による私闘と想定するのは簡単だが、 毛利氏と宍戸氏との関係は、まさに細川・大内二大勢力間の境目における代理戦争として理解せねばならない。

同じ理由により、弘元が発狂したといえども「宍戸の間者め!」と跳ね起きる事も有りえない!

最後に、杉の方が、祥の方没後の弘元継室に決まった背景であるが、 そもそも相合の方と争う必要はなかったのである。 なぜなら、側室・相合の方には子があるが、 郡山城主には、正室長子の幸千代丸、猿掛城主には正室次子・松寿丸が就く事は、 あらかじめ確定している。 そこへ既に実子を持つ側室が弘元の継室になれば、わざわざ相続紛争の種を作る事になる。 杉の方が選ばれたのは、弘元との間に子がなかったからである。



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