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平成十九年四月八日
(Last updated : 2007.3.31)
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Samurai


宍戸(ししど)氏の始まり

平治の乱に敗れた源氏の棟梁・義朝の十男・知家(母は宇都宮宗綱の娘・八田局)は、 平氏の追及を逃れるため、母の実家・宇都宮氏のもとで成長し、八田(はった)を名乗ったが、 頼朝挙兵に参陣して御家人となり、厚遇を得、 常陸(ひたち)守護として小田(茨城県つくば市)に居を構えた。

その四男・家政が、 常陸国宍戸郷(茨城県笠間市)に配され、宍戸氏を名乗ったのが始まりである。

常陸宍戸城

元和2年、水戸徳川家の四支藩の一つとして徳川1万石の陣屋が置かれた。現在は神社になっている。

安芸宍戸氏の始まり

家政から数えて五代目(但し傍流)の朝重(ともしげ)は、 足利尊氏の上洛に加わり、六波羅攻めに功あって、 従五位上・安芸守に任ぜられ、 甲立荘(広島県安芸高田市)を給わり、朝家(ともいえ)と改名し、 給地に移住した。 これ以降、安芸守という受領は、宍戸氏の専売特許となる。

五龍城

朝家は、初め、菊山の麓に城を築いたが、水利に恵まれなかったので、 対岸の元木山に五龍王を勧請し、水を得て、その地に五龍城を築いた。

五龍王というのは、石見や芸北の神楽の演目にあり、 暦の知識を、寓話化して農民に教える意図がある。

春青龍・夏赤龍・秋白龍・冬黒龍の四兄から冷遇された土黄龍が、 四兄の所領の割譲を求め戦さを仕掛けたが、 神様の裁定により、四兄の領地は東西南北と中央に分けられ、 土黄龍には中央を与え、以後、五兄弟は仲良く暮らした、というもの。

春夏秋冬それぞれの季節に土用の日がある事を教えている。 当時の民衆は、五龍を、天文・気象・地学を司る神と考えていたのだろう。

後の宍戸氏の始まり

朝家から数えて五代目(嫡流)の興家は、 暗愚にして暴虐、周辺武士は離反し、家運は低落した。

時あたかも、常陸宍戸氏(傍流)の元家が、 諸国修行の途上で五龍城に立ち寄り、 四柱八壁と呼ばれる重臣たちは、 元家の器量を見て、興家に引退を迫った。 五龍城主となった元家は、家風一新の条々を読み聞かせ、 重臣たちは忠誠を誓う起請文を提出した。 元家は、北隣の中村氏、東隣の辺見氏(三次市秋町)を討って旧領を奪回し、 可愛川(えのかわ)対岸の三吉領を攻めて、川立・長野(志和地)を支配下に収めた。 元家以後を「後の宍戸氏」という。

宍戸か、完戸か

「宍戸」は、毛利家文書や萩藩閥閲録の翻刻本では「完戸」と活字化されている。 「宍」と「完」どちらが正式な表記なのか。 「宍」の字は、現代人には馴染みがなく、音読みを知る方も皆無ではないか。 私も和製漢字と思っていた。 実は「ニク」という音読みがあり、中国では「肉」の異体字に過ぎず、字義は「肉」と同じである。 日本では、「宍」は「食用の獣肉」を意味し、「肉」と区別して用いる。

つまり「しし鍋」の「しし」である。 「しし鍋」は「猪肉の鍋」と考えがちだが、鹿肉の鍋も「しし鍋」である。 そもそも「イノシシ」の原義は猪肉、つまり「猪(い)の宍」なのである。 同様に鹿肉は「鹿(か)の宍」と呼ぶ。獣肉の鍋は、全て「宍鍋」なのである。

中世の文書では、当て字、つまり、 訓読みが共通する別の漢字による表記が横行するが、形の似た別の漢字を使用する例は珍しい。 「宍」も「完」も、くずすと区別がつかなくなるだけかもしれず、 従って「宍戸」と翻刻するのが適切だったのではないか。

宍戸三兄弟

元家には、元源(もとよし)・隆兼・家俊の3人の子があった。 永正元年(1504)、元家は、五龍城を元源に譲り、 隠居して隆兼・家俊とともに、 甲田町の東端部・深瀬祝屋(いわや)城に入ったと言われる。 隆兼は以後、深瀬氏を名乗る。

宍戸家俊

余り知られていないが、三男・家俊こそ要注意人物である。

文化文政期に編纂された「芸藩通志」は、 家俊を、隆兼の養子となり祝屋城主だったとするが、 面白いのは、愛宕の神に仕え、難行苦行の末、秘法に通じ、 飛行の自由を得たというのだ。 その秘法は河野大蔵という者に伝授され、元亀元年(元就没年の前年)、 深瀬の犬飼が原から飛び去って、山城国の愛宕山に入った。 愛宕の右脇に祠が現存するという。 また、五龍城にも小さな祠があり、司箭(しせん)明神という。 そのご神体は、天狗である。 「芸藩通志」編纂当時、司箭流の薙刀、貫心流の剣術が行われており、 いずれも家俊を始祖とする。

司箭神社は、平成の今も、五龍城の尾崎にあり、 城の登り口に神社の鳥居が立っている。

司箭流

司箭流の武道は、現在、岡山県の中山和夫氏が十三代目の後継者である。 中山氏は、他の古武道も引継ぎ、出身の岡山大学で古武道部師範を勤めておられる。

司箭院興仙

『遙かなる中世』12号に、東大史料編纂所中世史料部助教授・末柄(すえがら)豊氏の興味深い小論がある。

以下その小論によるが、 明応3年(1494)、近ごろ安芸国から司箭という山伏が上洛し、鞍馬寺で天狗の法を行う、 ともっぱらの噂である。 正体を確かめようと、唐橋(からはし)という人物が、東福寺辺の僧侶を引きつれ鞍馬寺へ参ると、 管領・細川政元が司箭の宿所に来ていた。 夜も更け、彼らと酒を飲んで語るうち、 司箭は「法の奥義は、言葉では説明できない」と言って、 短冊に「張良化現大天魔源義経神」と書いて見せたので、僧侶たちは怖がって逃げた、 という話が、当時の公家の日記にある。

細川政元は、戦国の幕開けともされる前年のクーデターで足利将軍を交代させた中央の実力者だが、 同時に、生涯独身で、修験道に凝り、空中飛行を試みて屋根から落ちてケガするほどの変人でもあった。 どうやら、司箭は、政元にとって心許せる修験仲間だったようだ。

六年後の別人の日記には、京都で火事があり、代表的被災者として政元の被官人二人を名指ししているが、 その一人が司箭であり、側近として活動していた事を伺わせる。 宍戸元家が、隆兼・家俊を連れて祝屋城に入ったとされる永正元年、 三条西実隆は、知行地での訴訟について、細川政元の援助を得るため、司箭院興仙という人物に会っており、 二年後、司箭院興仙は、僧正に昇格している。 「芸藩通志」の愛宕伝説や五龍城の司箭神社の存在などから、司箭院興仙が宍戸家俊と同一人物である事は疑い得まい。

毛利弘元と宍戸氏

元就の父・毛利弘元は、明応9年(1500)、家督を興元に譲り、 多治比(たじい)猿掛城に退くと、 吉田郡山城の幸千代丸(こうちよまる)陣営とは反対の立場、 すなわち、反大内、すなわち、細川政元寄りの活動を展開する。 安芸分郡守護・武田氏も同じ立場で、 弘元娘が武田某に嫁ぐのもこの頃である。 宍戸氏も、元家娘が若狭武田氏の重臣・粟屋氏に嫁いでいる。

弘元の時代は、宍戸氏と友好を保っており、 興元にも宍戸氏と事を構えぬよう遺言している。 これは、足利義稙(よしたね)を迎えて上洛を狙う大内氏を警戒し、 細川氏から積極的な働きかけがあったからだが、 その働きかけが奏功した背景には、 宍戸氏が、家俊=司箭院興仙を通して、細川政元個人と太いパイプを持っていた事が、 安芸国衆に大きな心理的影響を与えたものと思われる。

毛利興元と宍戸氏

弘元の死の翌年、1月に高田原(高林坊付近)で、 5月には甲立で、毛利氏は宍戸氏と合戦に及ぶ。 毛利氏の中でも、幸千代丸陣営は、元々大内氏寄りであり、 弘元の喪の明けるのを待って、堰を切ったようになだれ込んだのである。 これは、大内VS細川の代理戦争に他ならない。

政局が不穏になる中、細川政元が42歳の若さで殺され、 宍戸氏は反大内の後ろ盾を失う。 この年の暮、大内義興は前将軍を奉じて上洛軍を起こし、 幸千代丸は元服して興元を名乗ってこれに参陣、 宍戸氏も参陣を余儀なくされる。 その後、宍戸氏も船岡山合戦では戦功があったようだが、 武田氏を警戒して安芸国衆が帰国し、 翌永正9年に安芸国衆九名が一揆契約を結んだおりには、 安芸宍戸氏の署名が見られない。 分郡守護武田氏の支配域に属さない安芸国衆は、 正守護山名氏の下で一致した行動を示すのが筋だが、 反大内の宍戸氏は仲間に入れてもらえなかった。

永正12年になると、武田氏が、 厳島神領衆の東西対立に介入する軍事行動を起こした。 翌1〜2月、毛利方の中村氏が在城する志和地城を巡り、 三吉・宍戸連合と毛利氏の攻防があり、 2月、5月には、毛利興元と宍戸元源の合戦が甲立で展開された。 これらは、神領で事を起こした武田氏のけん制のため、 興元が、山県郡の有田城を攻めるなど親大内の旗色を鮮明にしたため、 反大内の宍戸氏らが、興元の後背を逆にけん制したものであろう。

この慌しい状況下で興元は急死する。 元就は、弘元も興元も、酒のせいで早死にしたと明言しているが、 その死は、なぜか政局の潮目の変化と密接に連動している。

毛利元就と宍戸氏

興元の遺児を後見したのが元就だが、 この頃から、 大内VS尼子の境目の緊張が備北地域に集中するようになり、 毛利氏と宍戸氏は、二大勢力の消長の波を乗り切るため、 共同歩調を取る傾向が強まる。

元来、石見・安芸にまたがる北方の勢力・高橋氏は、 共通の仇敵であった。 高橋氏を滅ぼした毛利氏は、 享禄3〜4年、新領の知行を大内氏に承認されるが、 一部を宍戸氏に分与している。 大内氏の指示もあろうが、 宍戸氏が高橋攻めに協力した事実もあったでのはないか。

天文3年、元就は年始の挨拶に五龍城を訪れ、 娘と元源の孫・隆家の縁談をまとめた。 この事は「芸陽記」という江戸期の書物以外に根拠がないが、 元就は大内氏の推挙で、前年、従五位下・右馬頭に任ぜられ、 官位の格式上、従五位下・宍戸元源と対等になれたばかり。 また隆家は、前々年の15歳の時、 大内義隆から一字を頂戴して元服したばかりと思われる。 その他の情勢(これを論じると話が長くなるので省略するが)から判断しても、 天文3年に婚儀があったというのは納得性がある。

しかし当時、隆元と元春の間に生まれた元就娘は、 6歳以上11歳以下であり、露骨な政略結婚ではある。

宍戸隆家

元就が娘を託した元源の孫・隆家は、どういう人物だったか。

隆家は、天文7年21歳で家督を祖父から継いだが、父は早くに逝っており、叔父・隆忠がよき支えになっていた。 しかし隆家は、家臣団の信望厚い隆忠を嫉妬し、讒言を口実に殺害する、という暗い伝説を残している。 その後、武人としても、政治家としても、隆家自身の功績は判然としない。 (これは、後世に伝えられる宍戸家の古文書自体が、 異常に少なすぎるからでもあるが・・・)

天文9年、尼子氏が吉田郡山攻めを決意し、三次から可愛(えの)川を遡上する備後路に先遣隊を出すが、 宍戸軍が祝屋城付近の犬飼が原で撃退した。 この時も、隆家というより、隠居の元源や祝屋城主・深瀬隆兼の軍功と考えられる。 また、そもそもこの合戦は、史料の裏づけがなく、存在自体が疑われる。

が、実子を養子に出したり嫁入りさせたりを通して、 安芸国衆を傘下に統合する事を基本戦略とした元就にとって、 隆家は、養子に出した元春や隆景と同格の存在だったようである。

61歳の時に認めた三兄弟への教訓状の中で元就は、 「三兄弟と五龍の関係が少しでも悪化するようでは、それこそ最大の親不孝である」ときつく戒めている。

隆家は、次女を吉川元春の嫡子・元長に嫁入りさせ、三兄弟との血のつながりを深めるが、 あるいは、元就の意向が背景にあったかもしれない。

続いて、永禄6年、毛利家当主・隆元が急死すると、 11歳にして家督を継いだ幸鶴丸(2年後から輝元)は、隆家三女6歳を正室として迎えた。

こうして隆家は、自らの血を毛利一族に注入するチャンスを得たが、 元長に子孫の存在は確認できず、輝元も、正室との間に子を授かる事はなかった。 後に萩藩の当主になったのは、側室の子・秀就であった。

子孫こそ現存しないが、 隆家三女その人は、萩・天樹院跡の墓地で、今も輝元の傍らにある。

永禄10年、元就は、伊予宇都宮氏の攻撃を受けた伊予河野氏の援助要請に対し、 福原貞俊を自身の名代とし、元春・隆景を出兵させるという、大がかりな対応を取った。

この時、隆家も出陣した。 河野氏の正室は、隆家の長女だったのである。

四年後、元就は75歳にして吉田郡山城で他界するが、 その当日、小早川隆景が、今後の対応を協議するため城内に呼び集めたのは、 宍戸隆家・熊谷信直・福原貞俊・口羽通良の四人であった。

理窓院

隆家は、文禄の役が起きた1592年、75歳で死去した。 隆家と元就娘の墓は、五龍城の川向い、菊山の麓の理窓院にある。

三丘(みつお)宍戸氏

関が原を迎えた宍戸家当主は、隆家の孫・元続(もとつぐ)であった。

毛利氏が防長二州に押し込められると、元続には、右田1万1千石(防府市)が配された。 後に三丘(周南市)の毛利氏(元就七男・天野元政の子孫)と領地交換となった。

三丘宍戸氏の石高は、一門衆の中で、右田毛利氏1万6千石に次いで二位だが、 家格は、宍戸氏が一門筆頭、右田毛利氏が次席と決められており、 毛利元就一族子孫の会「毛利会」のパーティなどでは、今でもこの序列が厳格に守られているという。

三丘には、天野元政が慶長8年、元就三十三回忌の際、元就の歯を埋葬したとされる宝篋印塔形式の「歯廟」がある。

三丘城というと、天正3年、伊勢参宮を目的とした上洛を行った薩摩の島津家久が、 その上洛の途上でこの城を見て、「高けれど悪しく候」と自筆日記に記している。 (「中書家久公御上京日記」) 何がどう気に入らなかったのか、興味深いところである。

(以上)



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