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高島城に至るには、湖畔から諏訪市役所のある市街地の方向へ入っていかねばならない。
天正20年(1592)ごろから普請が始められ、慶長3年(1598)に完成したとされるこの城は、
波が石垣に打ち寄せ、諏訪湖に浮かぶように見えたので、「諏訪の浮城」と呼ばれたが、
江戸時代を通して行われた干拓事業などにより、湖岸が徐々に離れていったため、
現在の高島城は、街なかにあって堀に囲まれているのである。
堀を回り込んだ所に無料の観光駐車場があり、「ようこそ諏訪へ」という独自デザインの幟旗がひらめく。
石垣を潜(くぐ)りぬける天守脇の入口があり、公園の地図も掲示されている。
さっそく天守へ向かうと、入場料300円と、「戦国時代の諏訪」という冊子が100円。
12ページのこの冊子は、内容がよくまとまっているので、
本ホームページの文章も、その冊子に拠るところが大きい。
展示は、今となっては印象がほとんど残っておらず、再現できるのは、三階から諏訪湖方面の眺望だけである。
写真は、やはり拡大図にリンクを貼っているので、クリックをお忘れなく。
写真のほぼ中央にあるドデカイ建物は、諏訪赤十字病院で、その左方、諏訪湖畔にそびえる二つの大きな建物は、
左が諏訪レイクサイドホテル、右が、RAKO華乃井ホテルパレス館である。
諏訪湖の先の山並みの稜線が、両ホテルの間で僅かに縊れている地点が、先ほど訪れた勝弦峠である。
私は、これから諏訪大社下社秋宮まで行くつもりであるが、それは写真やや右方に、
赤褐色の半円の屋根で校舎ふうの建物の上に白いホテルふうの湖畔の建物があり、
その先の対岸に、赤い屋根など観光施設が集中している様子の場所、そこである。
少し距離がある。
天守を出て本丸跡を散策すると、勘助と由布姫の絵に顔を当てて記念撮影できるようになっていたり、
亀石と云うものが置かれている。その亀石は、城内の庭園にあったものが、明治8年、城外に持ち出され、
以後、転々とした後、川西氏の庭に安置されていたものを、今年になって、城内に戻したのだと云う。
水をかけると亀のように生き生きとして、願いを叶えてくれるとやら。
見ると、四角い柱穴と思しき跡があり、何か建物の柱石にしていたのではないか。
さて冠木門のあたりに石垣跡がある。この門を出た場所が大手口である。
私は、無料駐車場の場所の関係で、裏口から忍び込んだようである。
ちょうど太陽の位置からしても、冠木門側から撮影した方が、天守閣が奇麗に撮れた。
もう一度、本丸に戻り、土産物を売る建物があったので、職場のお土産として、
「由布姫の里」という和菓子を買った。630円。11時33分。
これは、旅程中、トランクに置いたままにしておいたので、日中の駐車中に、
50℃を超える室温に晒されたに違いない。そう思うと品質上の心配が生じて、
職場用には、帰りの塩尻駅で別のものを買い、
「由布姫の里」は自宅用に転用した。
開けてみると、普通のお菓子の名称を印刷した紙に、一つ一つが包まれており、
配る段では、諏訪のお菓子とも、由布姫に因んでいるとも解らなくなる。
「由布姫の里」とは、包装紙だけ取ってつけたものに過ぎない。
なお、品質的には問題なかった。
天文18年、板垣信方(千葉真一)の次の次の諏訪郡代・長坂虎房は、
居城を上原城から高島城に移したが、その際の高島城は、現在地でなく、
諏訪市茶臼山の山城だったのだそうだ。しかし井上「風林火山」では、
「諏訪湖岸の高島城」として、現在の高島城と混同しているそうである。
さて、食事抜きのまま、更に左回りに湖畔を走り、諏訪大社下社へ向かう。
諏訪市から下諏訪町へ入ったあたりから、道路脇の旅館など、
いかにも観光地らしい様相を呈し始める。
有名な場所だけに、標識も分かり易く、難なく到着できた。12時4分。
駐車エリアに案内図があり、右手に手水があるので、回り込んで鳥居をくぐる事はせず、
そのまま手水を柄杓で掬って手を洗った。
「あちち!」
観光地らしく、温泉手水であった。近くに社務所があったので、500円で御朱印をもらった。
御朱印帳は、一昨年の夏に熱田神宮で買ったが、御朱印は、それ以来、2件目である。
今回は「信濃一宮」という添え書きもあり、見栄えがよい。
諏訪大社は、諏訪湖の南北に二社ずつ、四か所に鎮座する変わった形の神社である。
上社本宮は諏訪市に、前宮は茅野市、下社春宮および秋宮は下諏訪町と、三つの市町に跨る。
御祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、
古くから上社は男神、下社は女神の信仰が広く伝わる。
「日本書紀」によれば、持統天皇5年(691)、天皇が勅使を派遣して、
龍田の風神と信濃国の須波(すわ)神・水内(みのち)神等を祀った。
これが諏訪社が史上に登場する最初だという。
平安時代の延喜式神名帳には、南方刀美神社(みなみかたとみのかみのやしろ)と記され、
信濃国48座の第一に位置付けられ、当時から信濃一宮として信仰されていたことが解る。
「諏訪氏」を名乗る神官が武士化したのは平安後期と考えられる。上社と下社が完全に分離したのは鎌倉時代で、
以降、上社大祝(おおほうり)が諏訪氏、下社大祝は金刺(かなざし)氏を名乗った。
諏訪氏は鎌倉幕府に重く用いられ、諏訪頼重・時継父子は、最後の執権・北条高時の遺児・時行を諏訪に匿い、
中先代の乱を起こした。
南北朝の対立期、北条とのつながりで南朝方だった上社に対し、下社は先に室町幕府に帰順し、
信濃国司・小笠原氏を後ろ盾とし、
その後、上社と下社は対立が深まった。文明15年(1483)、
下社の金刺興春は、武津(諏訪市四賀)を放火、上社の反撃に遭い敗死し、
首を大熊城下(諏訪市湖南)に晒されたという。
孫・昌春が下社を再興するも、永正15年(1518)、上社・諏訪頼満と戦って敗れ、
武田氏を頼って甲斐に逃れ、その後、下社は衰退に向かう。
ここ下社秋宮の鳥居をくぐって、まず目につくのは正面の大きな木で、寝入りの杉と呼ばれ、
樹齢は六七百年、大社の御神木の一つである。
草木も眠る丑三つ時、この杉は枝先を下げて寝入り、いびきをかく。
子供に木の小枝を煎じて飲ますと、夜泣きが治ると伝わる。
その先、神楽殿は、三方切妻造で、天保6年(1835)2代・立川和四郎の作。
身長1m70cm、青銅製では日本一と呼ばれる狛犬を両脇に従える。
その先が幣拝殿で、安永10年(1781)の落成。
工匠は諏訪出身で、当時流行しつつあった立川流建築を学び、いくつかの名建築を残した初代・立川和四郎である。
軒回りなどの彫刻は、素木の生地を活かして清楚であり、デザインに大らかさがある。
幣拝殿奥の神明造の建物は、御宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、
寅年と申年に左右の御遷座祭を行う。
御宝殿の奥が、御神木をお祀りする御神座であり、下社の最も重要な場所である。
が、我々観光客は、幣拝殿の前で二拝二拍一拝するまでであり、その先は立入禁止なので、
外から覗き見ることもできない。
幣拝殿・御宝殿・御神座は、方形に塀に囲われているが、その外の四隅に、御柱(おんばしら)が立っている。
御柱は、諏訪大社の中でも下社秋宮のものが最も大きい。
御柱は、寅年・申年の御遷座祭の折に建て替えられる御神木で、
秋宮一之御柱は、長さ17m余、直径1m余の樅の木で、霧ケ峰高原に続く東俣国有林で伐採され、
数千人の氏子の奉仕で曳行された。御柱祭は天下の奇祭として有名で、次回は平成22年(庚寅)に行われる。
12時21分(結構せわしない)、諏訪大社を去り、諏訪頼重(小日向文世)の菩提寺・頼重院へ向かう。
途中、桑原城という諏訪氏の山城も予定していたが、
原田泰治美術館が挿し挟まった影響で、これを割愛することにした。
途中、セブンイレブンで食料と水を購入。缶詰は基本的にタンパク質なので、どうしても、
おにぎり・パンなどの炭水化物の補給が必要である。また、水も500mlのペットボトルは、通算すると高くつく。
今後、水は、キャンプ用のビニール製のタンクを持参し、ホテルの水道でタンクを一杯にし、
コンビニでは、水を冷やすための氷だけ買う手がある。
炭水化物は、食パン6切れなどを買っておくとよいかも。
因みに、私は冷蔵庫にあった保冷剤を、ペットボトル用保冷パックに入れて持ってきたが、
ホテルの冷蔵庫における冷凍室は、霜がつくので保冷剤の表面が破れてしまうし、
そもそも保冷剤は、旅の移動に際しては、重すぎて負担が大きい。
冷凍室に入れないで冷やした場合、午前中のうちに効力がゼロになる。
頼重院は、国道20号線から、左にかなり細い道を入っていくが、カーナビでは、その入口が特定できず、
しばらくウロウロしたが、山腹に寺らしき屋根が見えたので、それを目指して進んだ。
諏訪頼満の孫・頼重は、武田信虎(仲代達也)の娘・弥々(桜井幸子)を正室に迎えていたが、
晴信(市川亀治郎)が父を追放して甲斐の領主になると、状況が変わり、晴信に上原城を攻められ、
諏訪上社の神官・神長守矢頼真の記録に「頼重御うんすえに候」と記される程の末期症状に陥り、
諏訪勢は上原城に火をかけ、桑原城に退いた。
頼重は、降伏して甲府・東光寺に送られたが、
「おのずから枯れ果てにけり、草の葉の主あらばこそ又も結ばめ」という辞世を遺して、
切腹した。
境内では、「陽炎や頼重無念ゆらゆらと」という新田次郎氏の五七五形式の何か、を刻む記念碑が目立つ。
本堂左手に、頼重の供養塔らしきものが立つスペースがある。
平成19年1月31日発行の「戦国時代の諏訪」には、
甲府・東光寺で自刃した頼重の遺髪を諏訪に持ち帰り、目立たぬように供養したとの伝承があるが、
大正9年の台風で倒れた境内の覆(かさ)塔の中から見つかった宝篋印塔がそれではないか、とし、
宝篋印塔の写真と、本堂左手の覆塔の写真が掲載されている。
宝篋印塔は、宝蔵などに収蔵されていると思うが、覆塔の写真は、カラーでもあり、さほど古い時期のものではない。
覆塔の隣の古びた石灯籠は、私が撮影した写真のものと同一の形をしている。
つまり、大正9年の台風で倒れた覆塔は、修復されて、つい最近まで存在したはずだが、
今は、黒大理石ふうの五輪塔に姿を変えているのである。「頼重院殿・・・」と刻まれた文字により、
これが観光者向けの頼重供養塔なのであろう。
左にある「諏訪家之墓」もずいぶん目新しい。三俣不二雄氏の寄進である。
宝篋印塔は、ご住職に事前に電話予約しておけば、或いは見学できたかもしれぬが、
そこまで手まわしはできていない。13時2分。
次なるは、諏訪氏の本城・上原城である。続きは、次回まで。
(つづく)
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