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頼重院から、諏訪氏本城・上原城のある永明寺山公園は程近い。
登り坂の途中に、諏訪市居館跡である板垣平があり、館跡である事を示す大きな石碑がある。
標高845m。因みに、諏訪湖へ注ぐ上川は、永明寺山の麓では、標高768mである。
館跡の面積は1haで、現在は畑地になっている。
13時16分。
ここから歩いて登れば、上原城への大手道であり、山城マニアの推奨コースであるが、
なにぶん時間に急いているので、車で上まで上る事にする。
そうすると、本丸の裏手に「はなれ山」という小丘があり、その裏に駐車場がある。
左から入る道があり、間もなく、本丸と離れ山の間の大空堀が右手に見える。
敵に、離れ山がわに回り込まれると、本丸も危ないわけで、大空堀という防御意識の強い遺構があるのも道理である。
更に進むと、茅野市東方の風景が望まれる。西方金比羅神社のある三の丸へ達する。
ここは、板垣平からの大手道のゴールであり、郭の端の「かまど石」の下に、畝城竪堀が見れたらしいが、
全く念頭になく、二の丸へ登り、そこにある大きな物見岩に気を取られた。(残念!)
標高978m、南北30m、東西20mの本丸へ至る。13時46分。
諏訪湖方面の景色を望む。まわりの木を伐採すれば、中々展望のよい山城である。
諏訪氏を滅ぼした武田氏が、本丸に見張りを置き、板垣信方が板垣平の館に常駐しているとなれば、
諏訪の旧臣も、容易に反乱を起こせまい。
本丸から大空堀を見下ろすと、尚更、迫力がある。
さて、これから目指すのは、伊那市の高遠城である。
諏訪頼重の自刃後、諏訪の領有をめぐり、高遠頼継(上杉祥三)と武田氏が対立、
天文14年(1545)晴信は、上原城から高遠城へのルートである杖突峠を越えて、高遠に攻め入る。
高遠氏は自ら城を出て行き、高遠は武田領となった。
城を奪った後、晴信は、山本勘助や秋山信友に高遠城の改修を命じたとも伝えられる。
途中、諏訪大社上社前宮のあたりを通過する。その前宮の付近に、茅野市神長官守矢史料館がある。
守矢家は、諏訪大社の神職のひとつ神長官を代々勤めてきた家柄で、厳島における野坂家に相当する。
そして、野坂家に棚守房顕覚書など膨大な史料が残存しているのと同様、
貴重な古文書が受け継がれており、それを展示公開するのが、この史料館である。
特に、諏訪氏滅亡の際の顛末は詳しく書き記されているらしい。
入館料100円。ぜひ訪れたいところだが、今日、月曜日は休館、ということで、予め旅程から外していた。
諏訪の地へ来て見て、地元が盆休みをかきいれ時と自覚しており、月曜休館も、或いは返上しているかもしれぬ、
と思った。が、実のところ時間がおしているので、やはりスキップせざるを得ない。
高遠城へ向けて、さっそく登り道の蛇行が始まり、車は杖突峠を目指す。
この道は、まさしく天文14年(1545)、晴信が、高遠頼継を討つため、伊那郡に攻め込んだ折の進軍経路である。
14:30、標高1,247メートルの杖突峠に到着。無料休憩所があり、展望台があるというので入ると、
喫茶店を通り抜けて、ベランダから眼下を展望できるようになっていた。
左端が諏訪湖、中央の丘陵の右端が永明寺山公園(上原城)、その右に広がるのが茅野市街、その背後に走る稜線は、八ヶ岳連峰である。
さて、しばらく雄大な風景に見とれた後、喫茶店に入ると、チーズパン110円のポスターが目立ち、
レジのあるカウンターに幾つか商品が置かれている。私は、展望台を開放してもらっている恩義として、
この程度のコストであれば、当然、買って帰るべしと、名乗りいでると、店主というか、ママさんというか、
その辺の機微を汲み取ってか、懸命に無理な愛想笑いをする。
私もニコニコと微笑みを返したので、彼女はもう一度、愛想笑いを作る。
こうした間合いが、峠という環境もあって、何となく牧歌的で家族的な空気を作る。
そういえば。レンタカーの旅というのは、とことん孤独である。朝8時5分前、駅レンのおじさんと会話して以来、
14時40分、人と話すのは、これで二人目であった。
ここから高遠城は、緩やかな下り一方の道を、鼻歌交じりに突っ走る。
私としては、前後に車のいない道路をすっとばせるのが快い。
が、さすがに、目的地まで少々距離があった。
15時。高遠城公園に到着する。桜の名所ということで、ホームページで見たイラストマップは桜色に染まった賑やかそうな絵だったが、
私は公園の裏手に回り込んだようで、途中、畑中の狭い道を右往左往した上、
駐車場の周りは、大きな看板だけの無人の露店が不気味に並んでいた。
昭和初年、鉱山業を営む広瀬省三郎は、高遠城・法憧院郭を買い上げ、公園として寄付した。
その際、幕末、酒造業を営んでいた祖父の俳号にちなみ、白兎橋を設けた。それを今、渡っている。
南郭から本丸に到り、新城・藤原神社の近くに古戦場跡という看板が立っている。
天正10年(1582)2月、織田信長は信玄なきあとの武田氏を一挙に亡ぼすため、伊那口から長男信忠の率いる五万の兵を送り込んだ。
この大軍に恐れをなした伊那谷の城主は、城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
26才の青年城主・仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落して追い返し、三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。
要塞堅固を以って響いた城であり、城主盛信以下将兵は決死で奮戦したが、
17倍の兵力の前にはいかんともなし難く、三千の兵はことごとく討死した。
城主・盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁になげつけたと古書は伝える。
武田勝頼は、諏訪上原城から新府城に退き、更に天目山で自害。高遠城の戦いは、武田氏滅亡の最後の戦いの場となったのである。
太鼓櫓は高床式住居に床下から階段で入っていく風の、ちょっと面白い作りで、建物の窓から外を見下ろすように眺めていると、
若者の一団が、やはり興味深そうに近づいてきたので、一足先に降りることにした。
そこから園内をスタスタ足早に通り抜け、高遠閣という和風の研修センターのような建物の前を通りすぎて、北ゲートに達する。
ここで、自販機のジュースを購入。15時17分。
再び来た道を引き返し、記念碑などの存在に目を向けると、「広瀬奇壁・河東碧梧桐の句碑」に行き当たった。
広瀬奇壁とは、城跡を買い取って寄付した広瀬省三郎のことである。「斑雪高嶺朝光鴬鳴いて居」自由律?
河東碧梧桐は名の知れた俳人だが、「西駒は斑雪てし尾を肌ぬぐ雲を」と裏面に刻まれる。この地から、西に駒ケ岳が望めるのだ。
この城には天守閣が残存していなかったので、駐車場の近くの珍奇な建物を撮影しておく。
高遠城の総合的な印象は、近世、もしくは近代(?)城跡。深い空堀には目が止まったが、
夏草しげり、地形が曖昧になる中、神社や太鼓櫓、句碑など、昭和初年の成金趣味が幅を利かせている。
僅かに「古戦場跡」の看板だけが、風林火山との接点を感じさせた。
続いて車を、高遠町の中心部へ向けて発進する。城山を降りる途中で、旧・高遠高校の空き地があり、入口に高遠城門がどっしり構えている。
町の中心部に到り、多少ウロウロしながらも、建福寺に達する。15時52分。この寺には、保科正直・正光、という江戸期高遠城主の墓と並んで、
武田勝頼の母、すなわち、由布姫の墓がある。法名は、乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼、である。
彼女の死没は、勝頼10歳、弘治元年(1555)であるが、法名に乾福寺の文字があることが古文書より確認されているので、
この寺で葬儀があったという推理が成り立つのである。・・・が、墓の位置からして、保科正直の正室も、法名が乾福寺という文字を含んでいた可能性はないだろうか。
住職は、そのような疑問をぶつけられるのは迷惑千万と考えてか、お寺に用のない車の駐車を牽制する強面の注意書で、観光客を煙たがっている様子がうかがわれる。
さて、ここからは、この旅で唯一といっても過言でない、来た道を引き返すコースである。しかも杖突峠まで上り一辺倒で、
ガソリンとともに息切れしそうな陰鬱なドライブであった。
今度は高遠頼継の逆襲を思い描き、甲府方面へましっぐらに進もう。
急ぐ理由もあった。
長野県との境に近い山梨県北杜市に、風林火山館
という大河ドラマ用のセットを観光施設にした場所がある。
そう、武田氏の躑躅が崎館がドラマに出てくるのは、ここで収録されたものだ。
さしずめ、10年前の毛利元就村と同じようなものだ。
その施設は、17時までに入場すれば、17時半まで観光できる。
入場料300円を、30分だけのために支払えるのか。
いや大丈夫、夏休みということで、夜の部が19時から21時まであるのだ。
これは、ホームページにも掲載されていない裏情報である。
北杜市に風林火山館のシステムをメールでいろいろ質問したところ、
その返事で偶然知ったのである。
17時の入場料で、半券があれば、夜の部も再入場できるそうな。
さらに20時からイベントもあるらしいが、とりあえず室内展示や土産物なら、19時以降でもよいので、
日が暮れる前の躑躅が崎館の撮影だけ17時からの30分で済ませたい。
ところが、杖突峠に戻るまで、距離も長く、一車線で土地の軽自動車などの遅行に遮られて、随分時間を食い、
とうとう16:20を過ぎた。ここから山梨県北杜市に17時までに達するのは少々厳しい。
しかし、諏訪ICから高速で小淵沢ICへ疾駆する他あるまいと、敢えて交差点を西へ曲がる。
が、時間的に通勤時間というか、都市部の一般道路は快走を許してくれない。
果たして、こんな調子で私は、17時までに風林火山館
に達することができるのか、
続きは次回のお楽しみに!
(つづく)
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